オンラインサロン笑い道の月例会(ルナ会)は、メンバーのお話をじっくり聞かせていただく会です。
笑いの神に守られている
1.笑いヨガとの出会い
笑いヨガに興味を持つきっかけは、少々長くなります。
夫が亡くなり、毎晩なかなか寝付けなかった時期がありました。毎晩のようにラジオで深夜放送を聞いていたのです。
ある日、ラジオ深夜便で日野原重明先生がお話ししていました。
日野原重明先生は、聖路加病院のお医者さんでしたが、ハイジャック事件があったあの、よど号という飛行機に乗っていた方です。
還暦前にこの経験をされ、助かったときに「生かされた命を人のための使おう」と思ったそうです。
それを聞いて、気力が失せて仕事も辞めていたのですが、私も人の役に立つ生き方をしなければと思いました。
早速ボランティア養成講座を受講し、ボランティア登録したのです。
すると、社会福祉協議会や婦人会から、いろいろなお話がきました。
地域のサロンの世話人、その他できる仕事をやったのですが、その中で、皆に笑ってもらえたらいいなあと思ったのです。
その頃、産婦人科医の昇幹夫先生の『泣いて生まれて笑って死のう』という本を読み、笑いヨガの存在を知り、興味を持ちました。
うまい具合に私が住む大洲市に笑いヨガをやっている白石敬子さんと共通の友人を通じて知り合うことができ、彼女の笑いヨガを体験しました。
日本笑いヨガ協会の講座が愛媛県の歴史博物館であることを知り、私も笑いヨガを学び、笑いヨガリーダーになったのです。
もともと地域活動をしていたので、白石さんと一緒にあちこちで笑いヨガをやりました。
みんなが楽しんでくれ、みんなが笑顔になってくれ、笑いヨガをやってよかったと思いました。
ある時、日本笑いヨガ協会のメルマガを読み、奈良県吉野町で吉野病院の福岡篤彦医師と、日本笑いヨガ協会の高田佳子先生の講演があることを知りました。
その前年に東京の全国笑いヨガ大会で福岡先生と一緒に写真を撮っていて、大ファンになっていたことと、吉野の桜に憧れがありました。
往復とも夜行バスを使えば行けるとわかったので、予定を調整して思い切って参加しました。
こうやって、私は笑いヨガで本当に元気になり、2016年には富士山の麓で開催されたティーチャー養成講座にも参加しました。
2.「恩送り」を体験した水害
愛媛での笑いヨガは、リーダー養成講座の後西予市の宇都宮富美子さんのご尽力もあり、勉強会が定期的に開催されていたり、イベントを開催したりで、仲間が顔を合わせる機会がたくさんありました。
そうやって、出会った笑いヨガの仲間とは、笑いヨガ以外のことも一緒にやっていました。
2018年7月、その仲間4人で認知症予防ゲームの講座を大阪で受講することになっていました。
その日は大雨で、警報も出ていたのですが、仲間の家族の協力もあり、車と船を乗り継いで、なんとか大阪までたどり着くことができました。
講座中、スマホを切っていましたが、昼休みに確認してビックリです。
息子から何件も連絡が入っていました。なんと、家の中が浸水するほどの大洪水!!!
1階に住む私の荷物を何とかしようと大事なものがどこにあるのか、連絡を入れてくれていたけど、連絡がつかないから全部水浸しになったというのです。
すぐに帰ってこいと言われましたが、帰ろうにも電車が止まり、どうしようもない状態です。
結局その日、終了まで大阪にいて、なんとか松山市の親戚宅迄たどり着き、翌日、途中で当面の着るものと食料を買いながら、親戚に家まで送ってもらいました。
本当に1階がすべて浸水していました。
近所は床上浸水の家、2階迄水が来た家もありました。
私も住むまちは、水郷大洲とも呼ばれる地域で情緒あふれる城下町です。水辺空間は、まちの豊かさでもあるわけですが、その川がまた大きな被害をもたらしたのです。
復旧は本当に大変でした。
玄関口が塞がれていて、大きな家具や畳は一度ぷかぷか浮いたので、全てがめちゃくちゃです。とても一人では動かせません。
当面は電気も水も使えません。
幸いなことに、車だけは移動してくれていて無事だったので、2晩車で寝ました。
しかし、笑いヨガでご縁のあった方々が助けてくれたのです。
まず、お水が届きました。
そして、衣料や食料、その他必要なものが次々と届いたのです。
一緒に大阪に行った笑いヨガパートナーの白石敬子さんは、毎日顔を出してくれました。
全国のあちこちの地域からもご支援をいただきました。
熊本の方にも助けていただきました。
地震の際にはお世話になったから恩送りだと言われるのです。本当に嬉しかったです。
家の復旧は長くかかり、毎日毎日使えなくなった泥まみれの物や畳を運び出すのはうんざりする作業ではありましたが、やるしかありません。
笑いヨガをやっていてよかったと思うのは、そんな時でも、仕方ないなぁと思いながら、笑って過ごしていたことです。
近所の人とも笑っていました。もう、嘆いていても片づけは進まないからです。
「息しよるか?」
「時々はしよるよ!」
といった冗談を言い合い、大笑いしながらやっていました。
通りかかった人が「ここはええなぁ。皆が笑いよる。ほっとするわ」と言ってくれました。
私の家は幸い大規模な改築工事で済みました。
しかし、仮設住宅に住むしかなかった人もいます。
今度は私が「恩送り」をする番だと考えました。
2019年1月からは、仮設住宅で笑いヨガで訪問をし、2か所に1年間通いました。
何をしても楽しくなりましたし、ガーデニングもやっていて、生命の力強さに癒されていました。
サロンや婦人会等の行事も、元通りにできるようになりました。
しかし、やっぱり後片付けは疲れていたのだと思います。水害から体重が6キロも減っていました。
でもいいこともありました!
翌年の健康診断では、体重減で全ての数値が良くなり、褒められたのですよ。
3.さらに脳卒中に襲われた
私はもともと丈夫で、健康自慢でした。
薬もサプリも何も無しで、元気だったのです。
2019年の年末は、特に忙しく走り回っていました。
年明け、父の100歳(数え年)を祝う集いをやることになっていて、子どもや孫、曾孫たちが集まってくるので、その準備もありました。
年賀状は、徹夜をしてなんとか送りました。
自分では無理をした覚えはなかったのですが、それが影響したのでしょう。
1月2日にお祝い会を終え、4日の朝早く三男家族を空港に送っていく直前のことです。
「お母さん、さっきからおかしいよ」と言われました。
両手を上げてみたら、同じ高さに上がりません。
全く自覚症状はなかったので、長男を起こして空港に送り、帰りに病院に寄るつもりでした。
しかし、二人の息子はすぐに救急車を呼びました。
救急車に自分で乗ったのは記憶がありますが、10分程度の距離の病院についた記憶もその後の記憶も全くないのです。
脳卒中でした。
左半身がやられたのですが、1か月の入院で、リハビリもしっかりやり、障がいも残らずほぼ完治できると言われ、どんどん回復しました。
それでも家族や友人ががお見舞いに来てくれた時は元気で話ができるのですが、一人になるともう鬱状態です。
運転はやめた方が良いと言われてしまったからです。
私は運転が大好きで、両親を乗せてあちこち旅行にも行っていました。
運転ができないなんて、これからの人生どうやって行くの、人生終わりだと思いました。
運転ができない不安だけではなく、高次脳機能障がいで、何も考えられなくなったり、物忘れがひどくなったりしていました。
しかし、受け入れるしかないと思ったら、今度は自分はすごく運が良いのではないかと思えるようになりました。
良く考えてみたら、空港まで息子家族を乗せて車で出発していた後だったらと思うとゾッとします。
もし一人暮らしだったら、もし三男が気づかなかったらと思うと、自分の強運を思わずにはいられません。
そこに気づくと、今度は「これはできる」「あんなこともできる」と、今もできることが、たくさんあることに気づきます。
翌年度からは重要な役職に就く予定でした婦人会活動も、そんなことで役職はお断りしましたが、負担が少ない役をいただいています。
運転も高速道路や長距離は控えていますが、医師の許可を得て近所での運転は再開できました。
笑いヨガは、2020年からはコロナ禍が始まり、オンラインになったのですが、オンラインができない方もいらっしゃいます。
その方々の要望もあり、公園で集まって最初は5分だけ、徐々に時間を延ばして20分位ならということで、屋外で距離を取ってやっています。
疲れやすくなったとはいえ、自分ができることはまだまだあるのです。
幸い身体の後遺症はなく、不自由なく暮らすことはできていますが、地域や笑いヨガの仲間に声をかけていただき、無理のない範囲で活動ができていることが本当にありがたいです。
4.父を見送る
父の存在も、私が元気でいなければいけない理由のひとつです。
地域で笑いヨガ体験会をしたのは、当時96歳だった父に笑いヨガをやってもらいたいと思ったからです。
父が参加してくれ、本当に嬉しかったです。
笑いヨガに参加した後、孫が「笑いヨガは爺ちゃんにすごく良い!」というのです。
年相応に耳が遠くなっていたのですが、笑いヨガの後、耳が聞こえ始めたというのです。
ただし、その効果は2週間しか続きません。
それならば1週間に1回は笑ってもらいたい!と思い、できるだけ笑いクラブに誘い参加してもらいました。
父は93歳で90歳の母を看取りました。
母は最後の2年半は病院で寝たきりでしたが、1日も欠かさず見舞いに行き、手や足を優しくさすり、話しかけていました。
その様子に孫たちとその嫁たちも、感動していました。
パートナーを大切にするということを、態度でしっかり若い世代に見せました。
99歳で骨折をするまで介護保険を使っていません。
全て自分のことをやり、ニワトリの世話や畑仕事もやっていました。
100歳のお祝いをしたときは、一人暮らしをしていました。
時には同じ敷地内に住む家族と一緒に食事をしたり、おかずのおすそ分けをもらったりしていましたが、基本的に自分で料理や洗濯もできました。
本人は、妹弟、そして母を看取ってさみしい部分もあったと思います。
私も、父に少しでも元気になってもらいたいと、地域で笑いクラブをやりました。
父は、いつも楽しそうに参加してくれ、笑いクラブの皆様にも100歳のお祝いをしていただきました。
一緒に笑いヨガをやっている白石敬子さんの実母も90代ですが、その世代が元気に笑うと、それ以下の世代は年齢の言い訳ができなくなりますね。
97歳迄位まで自分でワープロを使って年賀状を作っていました。
95歳迄運転をしていて、免許返納は渋りましたが、なんとか説得し、その時にスマホをプレゼントしたら、喜んで使っていました。
コロナ禍が始まり、私は父に中古のパソコンをZoom用に購入しました。
孫が接続を手伝うと、喜んで参加していました。
2021年2月に老人ホームに短期間でしたが、入居しました。その時は、孫の助けが借りられません。
私も同じパソコンを使い、取説を作成し、スマホで連絡を取り合いながら、なんとか自力でZoomに入ってこれたとき、笑いクラブの皆さんは、本当に興奮するほど喜んでくれました。
その後老人ホームは退去し、自宅で7月7日、家族に見守られ息を引き取りました。
最後まで、好奇心旺盛で、なんでも新しいことをやってみる人でした。
そして、明るく元気で穏やかな父らしい最期でした。
5.おわりに
私は、笑いヨガを学んだおかげで、地域でお役に立つことができました。
しかし、水害に見舞われ、自分のものを全部失う経験や、脳卒中という思いがけない病気で自分らしく動けなくなったとき、笑いヨガが本当に役立ったのは、人ではなく自分のためだったと思います。
笑いヨガの仲間や大勢の人から、あたたかい愛が届いたこと、そして自分の心をしっかり保てたことも、笑いヨガのおかげです。
そして、父の晩年一緒に笑いヨガができて、地域の笑いヨガ仲間の皆さんだけではなく、こうやって全国の皆さんにも、父の話を喜んでいただけ、本当にありがたいです。
ご清聴ありがとうございました。
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