(笑い人)良いことも悪いこともずっとは続かない

良いことも悪いこともずっとは続かない

オンラインサロン笑い道では、ルナ会(月例会)をやっています。

話題提供者が次の方にバトンを渡します。
今回の話題提供者の義村和子さんは「絶対無理!私は人見知りで人様の前でお話できない」と思ってバトンをいただいた愛媛の堀本眞貴子さんにお断りの電話をかけました。そこで盛り上がり、90分もおしゃべりしました。

そして、ちょうど70歳になったので、人生を振り返ってみようとお引き受けいただきました。
堀本さんの背中の押し方がうまかったのだと思います。

 

平凡でもいろいろあるもの

私は昨年秋、70歳になりました。
人生を振り返る良い機会だと思い、お話させていただきます。

3人兄妹で、兄が二人おりました。一番上の兄は、幼い頃になくなってしまいました。

子どもの頃の家族写真。向かって左の抱っこされてるのが義村さん。祖母の両脇が兄二人

小さい頃の記憶といえば、すぐ上の兄について、子どもだけで生駒の山に歩いて行ったことです。
うちから生駒山は見えるのですが、8キロもあります。

兄が5年生で、私が2年生の時です。
なんで行くことになったのか、どんな様子だったのかは全く覚えていないのですが、その晩、二人しておばあさんにえらい怒られたことだけが、印象に残っています。

義村さんとお兄さん

 

高校生で大阪万博(1970年)があり、翌年高校を卒業して就職しました。

特に仕事で必要というわけではなかったのですが、就職した翌年、中学、高校の同級生の友人に誘われて運転免許を取りました。

就職1年後のことで、運転免許を持って成人式を迎えました。当時は運転免許を持つ若い女性はまだ珍しく、教習所の教官もとても優しくしてくれ、運転が好きになりました。

自分でお金を貯めて、そして母に借金して翌年新車を買いました。

左が義村さん。初めて買った車(スプリンター)と友人

しかし、たった2週間でその新車をこすって傷つけてしまいました。

そうこうしながらも、運転も上手になってきたので、兄の住む東京まで両親を車に乗せて行ったのです。

行きは良かったのですが、帰りの高速のサービスエリアでガソリンを入れようとしたら、ガソリンスタンドがしまっていて途方にくれました。

当時、遠出をする際は帰りのガソリンをタンクに積んで出かけるのがあたりまえの昭和49年、オイルショックの時の話です。

親切な人が自分のタンクのガソリンを分けてくれ、次のサービスエリアまでついてきて、私の車がリッター何キロ走るかを計算し、分けたガソリンで自宅まで帰られることを確かめてくださいました。

名前も聞かずにお別れしたのですが、本当に感謝しました。

 

それから、数年経ち兄が28歳、私が25歳の時、兄が交通事故にあったと連絡がきました。
両親は静岡の病院に駆けつけましたが、残念ながらその事故で兄が亡くなってしまったのです。

戻ってきた母の履物が左右違っていましたが、笑うどころではありません。
知らせを受けたときも、そのあとも母はものすごくショックを受け、1年以上は立ち直れずにいました。

やっと少し元気になってきて、易者に墓相を見てもらうと言い出し、その際に私の名前も見てもらいました。母にしたら、3人の子どもの二人まで亡くしたので、私に大きな期待をするようになったのでしょう。

易者から「ちさえ」に改名した方がいいと言われました。実際には改名手続きはせずに和子のままですが、Zoomの名前等で「ちー坊」と名乗ることがあるのは、このときにつけてもらった名前の名残です。

 

私は会社勤めをしていて、仲間とスキーに行きました。

信州にスキーに行ったとき

30代の初めの頃で、足を複雑骨折してしまい、滋賀県のスキー場から大阪の病院に運ばれました。当時の病院は、誰かがついてお世話をしないといけなかったのですが、母がずっと泊まり込みで1ヶ月半付き添ってくれました。

今回、皆さんにお話することになり気づいたのですが、当時の母はちょうど70歳でした。今の私と同じ年です。
たいへんだっただろうなあと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

2年ほど経ったとき、大腿部に入れていたプレートを取る手術を受けました。
ところが、それから数日経って痛みがひどくなり、検査をすると骨がついておらず、移植手術という大がかりな手術をせねばなりませんでした。

後から思うと厄年だったのですね。

 

親にも心配をかけましたが、会社も何度も休むことになったのに、クビにもならず、働き続けることができたのは、本当にありがたいことでした。

 

37歳のときでしょうか、関西テレビの「ノックは無用!」という番組のスタジオ観覧に行きました。
友だちのお姉さんが応募していたのですが、行けなくなって私に譲ってくれたのです。

番組の後半にノンストップゲームというのがありますが、なんとそれにチャレンジする権利が当たりました。
サイコロを振ってプレゼントをもらう権利を得ましたが、「チャンスランプ」にも挑戦できたのです。
私は再チャレンジし、なんと、新車をいただいたのです!

 

人生ええこともあれば悪いこともある。
悪いことがあっても、ええこともあるなあと実感したのです。

 

 

40代からの連続介護

40代の思い出としては、48歳の時に、父が脳血栓で倒れました。
仕事後に毎日病院に見舞いに行きました。しかし、その病院は出なければなりません。

母も介護をできる状態ではなかったので、私が介護をしなければならないのですが、病院から「在宅だと3人は必要だから、あなた一人では無理です」と言われ、なんとか次に入院できる病院を探してもらいました。

 

次の病院から「ちゃんと頻繁に見舞いに来てください。放置したら、すぐ退院ですから」と釘をさされ、病院通いは続きました。
この病院は、車で1時間かかります。
このとき、車の免許を取っておいてよかったと思いました。車がないと、とても行くことはできませんでした。

 

父は、この病院で院内感染し肺炎になりました。
病院から夜中に呼び出しがあり、冬山の凍結が心配でしたが、なんとか到着しました。

到着したときは大丈夫でした。

ほっとしたのもつかの間、しばらくして、父の最期の時を見届けました。

 

ほとんど毎日病院に通って10か月が経っていました。
見届けられてよかったなあと思います。父は92歳、大往生と言えるなあと思いました。

この時、家には母と聴覚障害がある叔母がいました。
母は腎臓が悪く、肺がひとつしかないので、呼吸が苦しいのです。

父が亡くなってから、デイサービスに通いながら入退院を繰り返しているような状態でした。

 

母はなかなか眠れず、寝苦しいので私を起こすのですが、私も仕事をしながらの介護です。
疲れて添い寝になってしまうと、母もスーっと寝るのです。
人がそばにいると、安心感があるのでしょうね。

 

会社でいると毎日電話が入ります。
同僚たちは「お母さん?」と聞いてくれるのですが、夕方になると母は、何時に帰ってくるのかと聞くために、電話をかけてくるのです。

 

徐々に弱っていき、最期は入院になりましたが、今度は家から徒歩15分の場所でした。
ちょうど父が亡くなってから3年後に息を引き取りました。
91歳だったので、母も大往生だったと思います。

 

父の妹の叔母も同居していたのですが、彼女は、幼い頃から聴覚障害でした。
母のケアマネに相談しましたが、受け入れ経験が無いということでデイサービスは不安がりました。
しかし、母が付きそうという事でなんとかお願いすることができました。

 

その叔母は、84歳で乳がんになり、88歳で乳腺がんで入院しました。
そのときも、会社の帰りにまた毎日病院通いでした。

さらに、92歳で大腸がんになりました。

入院するたびに、だんだん歩けなくなり、寝たきりになりました。
家にいると、寝たきりのお世話でこれまでとは違って大変でした。

 

その頃勤務していた会社は、朝7時には出勤し、家に20時過ぎないと帰れません。
睡眠時間3-4時間でがんばりました。

叔母の介護には、静岡の従姉も来てくれましたが、従姉は静岡でも介護をしているため、月に1週間しか来ることができません。

 

食事のお世話も大変で、入院してもらうしかないこともありました。

 

そんなとき、会社の早期退職制度があり、私も9月で56歳になるので、思い切って早期退職しました。
それからはゆっくり看病でき、2年後に96歳で亡くなりました。

 

父、母、叔母と3人の介護をしましたが、やっているときはただ目の前のことに一生懸命でしたし、終わってみて、悔いはないです。

  

笑いヨガとの出会い

叔母がなくなってから、パートでお弁当屋さんに働き始めましたが、以前の骨折の影響から立ち仕事で筋力がないことを実感し、仕事を辞めました。

地域活動も始め、お世話役もするようになりました。
2018年にお世話役として、どんなことをしようかと探していたところ、公園で楽しいことをやっていると聞いて、皆で参加したのが笑いヨガでした。

 

最初は「えー何これ!」と思いましたが、自分だけ帰るわけにもいかず、やってみたら、だんだん楽しくなってきました。
詳しく聞いてみたら、大阪で勉強できる機会があるというのです。

 

それで、2019年6月15日16日に日本笑いヨガ協会主催の笑いヨガリーダー養成講座に、友だちと一緒に参加しました。

若い人、男性、いろいろな人がいて、とても刺激的でした。

しかし、私はとても人見知りで知らない人の前でやれと言われ、本当に困りました。知らないことばかりで頭グルグルでしたが、2日間が終わり笑いヨガリーダーになりました。

笑いヨガリーダーは、笑いクラブをつくることを推奨されるのですが、とてもそんなことはできません。

一緒に参加した友だちと、大阪888笑いクラブに参加していました。
そのほかに月に2回やっている城東区福祉センターでやっている城東笑いヨガサークルにも参加していました。

 

2020年コロナ禍が始まり、糖尿病や高血圧の人は重症化する、マスクや消毒液は手に入らないという状態で、地域活動も停滞し、不安だらけになりました。

何をしていいのか、わかりませんし、人に会うのもはばかられる状況です。そんな時般若心経を唱えて心の安定を求めたことがあります。

 

2020年4月から池川成子さんが「一緒に笑おう大阪」を始めてくれ、Zoomの使い方も教えてくださいました。
とはいえ、Zoomについていくのがやっとだったのですが、とにかく毎週笑いヨガをやっていました。

高田佳子さんのフェイスブックで朝の笑トレや、日本笑いヨガ協会の笑いクラブ配信もあり、それにも参加するようにしていました。

 

習い事が再開し、コーラスが始まったとき、他の人は声が出づらかったのですが、私は声が出ました。
2019年から毎日続けて笑っているおかげだと感じました。

 

城東笑いヨガサークルも再開したのですが、主宰者の田北都子さんが体調を崩されたので、代打でリードを任されました。

最初はお互い一時的のつもりでしたが、今は任されています。

 

最初に城東笑いヨガサークルでリードをすることになったとき、自信をつけるため再受講でオンラインの笑いヨガリーダー養成講座に参加しました。

このときは必要に駆られて学んだので、前とは気合が違いました。

 

笑いヨガリーダー養成講座前後にしっかりとオンデマンドの映像もみました。

 

オンラインサロン笑い道にも入り、今では全国の人としょっちゅう一緒に笑っています。

これまで一人旅の経験も少なく、不安でしたが、思い切って富士吉田市の笑いキャンプ22にも参加しました。

人見知りは治りませんが、こうした活動に積極的に参加するようになり、遠くに住む気の合う友だちもできたし、体力に自信もできてきました。

オンラインサロン笑い道の同じような年齢の方々の地域での活動に、刺激をいただいています。

今回、自分のこれまでの人生を振り返ることもできました。
良いことも、悪いこともあったけど、どちらも続かないし交互にやってくるのだと実感しています。

 

皆さん、つたない話を聴いてくださり、ありがとうございました。

 

2 件のコメント

  • チー坊さん。毎週一緒にzoomで笑えて嬉しいです。今回のルナ会を今見ました。1人で、介護されてて大変でしたね。
    ご両親や叔母さんを見送られて悔いは無いとの事。良かったと思います。若い時から色々と活発にされてたんですね。その様子が、私の頭の中に浮かんできそうです。これからの人生も大切に過ごして下さいね。またいつかリアルにお会いできたらいいなぁと思っております。

    • 遅くなりました
      コメント有難うございました
      リアルで会えると良いですね
      金曜日zoomで会いましょう

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です