病気が教えてくれた大切なこと
2023年11月のルナ会(月例会)の話題提供者は、愛媛県宇和島市在住の大塚貴子さん。
実は彼女、2022年秋にクモ膜下出血で倒れました。ありがたいことに、2023年10月の全国笑いヨガ大会に参加し、元気な顔を全国の仲間に見せてくれました。それまでの紆余曲折を、彼女への応援歌をもって大会に参加してくださった家森佳子さんと一緒に語ってくださいました。
今回は対談形式でお届けします
笑いヨガセッションの最中に突然倒れた
2020年5月から、私たちは朝活をやっています。全国の人が毎朝集まって、Zoomで笑いヨガをやっています。
2022年9月のその日は、私が笑いヨガセッションの担当でした。一通り笑いヨガをやって、リラクセーションの最中に、突然頭が締め付けられるように感じ、動けなくなったのです。もう、横になるしかなく、そのまま倒れました。
それが、リラクセーションをしている最中だったので、みんな目を閉じていて気づきませんでした。私はホストだったのでたまたま見ていたのですが、横向いてスーッと画面から消えたのです。ガサガサっと音がしたきり戻ってきません。声も聞こえません。どうしようかと思いましたが、とりあえずセッションを終わらせました。
横になったら、足を全く動かせないことに気づきました。2階でやっていたのですが、救急車を呼んでも玄関の鍵がしまったままだし、どうやって鍵を開けに行ったらいいのかと考えたら、そのまま気を失ってしまいました。
昼過ぎにいったん意識が戻り、相変わらず足は全く動かないのですが、手は動いたのです。そこで、下の階にいる夫に電話して救急車を呼んでくれるように頼みました。
夫は脳梗塞で右半身に麻痺があるのですが、遠慮している場合ではないということは自分でもわかりました。救急車を呼んでもらい、何とか鍵を開けてもらいました。2階まで救急隊員が来て、やっと病院に運んでもらえると思ったのですが、そこでまた意識が遠のきました。
次に気が付いたのは、手術室に入る直前に、娘夫婦の顔を見たときです。
何てこと!
それは驚きですね。本当にたいへんなことになっていたのですね。佳子さんは、心配されたでしょう。
私は目の前で彼女が消えているのを見ていましたが、まさかクモ膜下出血だなんて思いませんでした。ご主人様が脳梗塞だったので、彼の調子が悪くて助けに行き、連絡もできないのだろうと思っていました。
彼女は普段はめちゃくちゃ元気なのです。全く病気には縁のない人で、風邪もひかない、歯医者以外には病院に行くことはない丈夫な人だから、まさか彼女が倒れたとは思ってもいませんでした。
でも、LINEを何度送っても既読がつかない、電話も出ない、それが昼まで続き、だんだん不安になりました。私は出張で松山にいたので、家に行くわけにいかず、夜になって娘さんに連絡を取ってみたのです。
そこで、彼女自身がクモ膜下出血であると聞かされました。命に別状はないし、話もできたと聞いたものの、とても心配でした。
それは心配でしたね。お話ができたのはいつでしょう。
手術後、私はHCU(準集中治療管理室)にしばらくいました。その時は、頭痛と熱で大変でした。痛み止めを飲んでもあまり効かず、なかなか眠れないのです。点滴やモニターやら、体はいろいろな管でつながれているのです。でも、動いてみたら、手も足も動きました。頭痛はつらかったのですが、ホッとしました。
1週間ほどして、HCUから一般病棟に移ることができました。まだまだ頭痛は続いていましたが、そのタイミングで佳子さんに電話をかけました。
その1週間は、本当になんとも言えない気分でした。
たかちゃん本人は、人に言ってもらいたくないかもしれないと私が勝手に思っていて、他の誰にも言わなかったのです。
私はプロ(ケアマネ・介護福祉士)ですから、車椅子押します、おむつも変えます、何でもしますから、命だけは助けてくださいとずっと祈っていました。
電話で「手は動きます、足も動きます、しゃべれます」と言ってくれました。本人の電話ですから、ものすごく安心しました。いろいろ聴きたいことはありましたが、これだけ言っただけで、息が上がっているのが電話でわかるのです。
ですから、「もういいよ。電話切って!」と言って、電話を切った後に涙が溢れ出し号泣してしまいました。
物が二重に見えると言ったので、LINEでのやり取りも難しそうだとわかりました。
その1本の電話がものすごくありがたいものになりました。
まずは佳子さんに電話をして、状況を伝えました。
手術後は、脳梗塞や水頭症の合併症が出る可能性もあるとのことで、2週間は何もせずに頭痛に耐えながら寝ていなければなりません。
2週間後位からリハビリが始まるのですが、先ほど彼女が言ったように、ものすごく体力が落ちていました。立ち上がってリハビリ室に行くとき、点滴台につかまらないと、歩けないのです。
午前午後と1日2回のリハビリがあり、呼びに来られる度に「もう時間?」と思ってしまうほど体力が落ちていました。
そのリハビリ、どれくらい続いたのでしょうか。
40日ほどの入院でした。その後、リハビリ病院に転院する人が多いのですが、私の場合はそのまま退院し、普通の生活の中でリハビリをしていくことになりました。
元の生活にあわせた動きでリハビリするということですね。もともとは、どんなお仕事をされていたのですか。
午前中は、実家の両親がやっていたみかん畑を引き継いだので、その仕事です。
といっても、数年前までは母と義母の介護、母を見送った1か月後に夫が倒れ、入院から在宅へと介護が続いていました。
だから、あまり手をかけられないので、スーパーとかの地元生産者が出すコーナーに置いてもらっていました。無農薬で安全がウリの小さなみかん農家です。
そして、午後は本屋の配送のアルバイトをしていました。
主治医から、退院後の車の運転を止められてしまいました。だから、2022年9月からはどちらの仕事もできなくなりました。
音楽が縁を深めた
車の運転はやらなくなったとはいえ、言葉も動作も問題なく復帰できるほど回復できて本当によかったですね。
佳子さんは最初に電話があったとき、号泣されたのですよね。仕事も接点が無さそうですが、大塚貴子さんと佳子さんは、どこで出会って、そんなに仲良しになったのでしょうか。
元々は、子ども同士が同級生で、同じクラスでした。いわゆるママ友です。保護者のバレーボールのクラスマッチみたいなものがあり、その後の打ち上げというか、親睦会が出会いでした。
その時、お互いに「この人良く飲む人だなあ」と思いました。からだを壊し、今は全く飲まなくなりましたが、当時はまだたくさん飲んでいました。
お互いの飲みっぷりに注目したのが最初です。
お酒もですが、彼女はシンガーソングライターでした。知り合いに誘われて参加したイベントで、佳子さんがギターを弾いて歌っていたのです。それもオリジナルソング、作詞作曲をした歌を、自分で歌っているのです。私の身近にそういう人はいなかったし、その音楽がすごくステキなのです。感動したし、尊敬しました。
音楽の趣味が合ったのですね。
二人とも伊勢正三が大好きなのです。かぐや姫とか、風といっても今の人にはわからないかもしれません。
私たちは、彼の大ファンなので、一緒にコンサートに出かけたりして、だんだんと仲良くなりました。
私の音楽も気に入ってくれて、地元でやるコンサートやライブは、もれなく来てくれるようになりました。
いつも一緒に来てくれるので、たまに一人で行くと「いつもの人は?」と聞かれます。彼女の名前を知らない人でも顔は知られているというほど、一緒に来てくれました。
たかちゃんは、私の音楽をいつも応援してくれています。
ワクワク、ドキドキ、ジーン
私が以前に雑談で聞いて感動したのは、大塚貴子さんは佳子さんの大ファンで、親友でスタッフのように手伝ってくれるのに、自分がCDを人に差し上げるときは、必ずキッチリ定価で購入するというお話でした。
また、佳子さんは好きな酒をやめたのに、貴子さんは平気で目の前で美味しそうにビールを飲むのです(笑)
アーティストである佳子さんに敬意を払い、だけど遠慮も無理もしない関係を保てる友情ってすごいなあと思いました。
そんな貴子さんが倒れ、佳子さんはすごくショックだったと思います。しかし、そのことで彼女の応援歌が生まれ、それが笑いヨガの仲間の大好きな曲になっています。
この曲について、お話いただけますか。
もう、くも膜下出血で倒れたときは、本当にショックで不安でした。あのときの感覚は何とも表現できません。「たかちゃんが死んでしまったらどうしよう」と思いましたが、それを打ち消すように、「思った通りになる、きっと帰ってくる」と自分に言い聞かせ生還を祈ったのです。
彼女は、よく「旅に出たい」と言っていました。
だから、老後は一緒に全国を旅をしながら笑いヨガの仲間を訪ね、笑いヨガをしたり歌ったり温泉に入ったりしたいねと話をしていたのです。
ご主人が倒れてから、彼女は一度も旅に行けていません。私のコンサートには来てくれても、家族の食事もちゃんと準備してからしか出られなかったので、泊まりでの外出はできていなかったのです。
ご両親と義母を見送った後も、右半身麻痺のご主人の介護があるし、仕事も休めないので仕方ないと彼女は思っていたのです。
それが、40日間入院して家を空けることになったのです。すると、全てはなんとかなっているのです。仕事は他の人が担当しているし、ご主人も新聞を取りに行ったりカギを開け閉めをしたりができたのです。娘さんや他の人の手を借りながらも、自分で起きて食事をしたりデイサービスに行ったり、ちゃんと一人で生活できていたのです。
たかちゃんは、自分がやりたいことを後回しにしてばかり、そしてどこか人に遠慮してばかりの人生だったように思いました。
やりたいことをやるために、人の助けを借りたらいいのです。行ってくるよといって、さらっと出かけることもできるはずなのです。
人は誰でもいつ死ぬかわからないのです。
みんな自分の人生なのだから、やりたいことはやってほしいなと思ったのです。
無事だとわかり、心から安堵していて歩いていたとき、ふと「やりたいことはやっておこう、行きたいところに行こう、会いたい人がいるなら、今会いに行こう」というワンフレーズが浮かんできました。
曲はまだ完成していないとき、山梨で11月に開催された昨年の笑いCamp22に参加しました。
そこで、ご登壇された愛媛県双海町の若松進一さんの言葉に感動しました。
「ワクワク、ドキドキ、ジーン」
この曲は、たかちゃんへのメッセージではありますが、これが入ることで、たくさんの人に感じてもらえる曲になると思いました。
若松さんに連絡をして、この言葉を使わせていただけるよう、お願いしました。
Let’s Go!(作詞・作曲 Yoshiko)
やりたいことはやっておこう、行きたいとこへ行こう
会いたい人がいるのなら、今、会いに行こう
Let’s Go!
「会いたいね」と言いながら、何年も会っていない。
「落ち着いたらね」というけど、それっていつになるの
当たり前の毎日が続くとは限らない
何が起こるかわからない それはみんな同じ
誰かに遠慮してても 時間は戻せない
君の時間は君のもの やりたいことをやろう
ワクワクすることしよう
ドキドキすることしよう
最後にジ~ンと来たなら それが最高さ
やりたいことは やってみよう
やりたいときにやろう
行きたいところがあるなら
さあ出かけよう Let’s Go!
(歌詞は1番のみ掲載。フルは映像を御覧ください)
家森佳子さん、ありがとうございました。大塚さん、最後に初めてこの曲を聴いたときの感想を教えてください。
退院してから1か月ほど経ったときに聴かせていただきました。この曲は、自分への応援歌なのだとストレートに心にしみました。
「行きたいところに行こう!」ということで、全国笑いヨガ大会福島に参加することができました。佳子さんが話してくれたように、主人が倒れてから私は愛媛県外にほとんど出ていませんでしたので、福島に行く目標をもってリハビリができました。
退院後の初ドライブでは、すぐに車酔いしていた私が、宇和島から松山へ、そこから飛行機に乗って羽田、さらに何度も乗り換え福島へ。
愛媛県から9人で一緒に移動をしましたが、新幹線の福島駅で福島の皆さんに出迎えていただきました。
これからも、いろいろな町に笑いヨガの仲間に会いに出かけたいと思います。
ありがとうございました。