(笑い人)人生はマラソン 目の前にあることが私のチャンス

人生はマラソン 目の前にあることが私のチャンス

ルナ会は、オンラインサロン笑い道の月例会で、メンバーお一人の方のお話をじっくり伺う機会を設けています。
2022年5月27日に福岡県の柳本早百合さんのお話を伺いました。

 

柳本さんは、現在健康体操のボランティアをやりながら、週末はご主人とからだに優しくからだがよろこぶ料理を出すお蕎麦カフェこんさい館もやっているマルチで活躍されている方です。

趣味が豊富な方だとわかっていましたが、マラソンをやっていたという話は、今回始めて聞きました。

彼女はマラソンは人生と似ていると語りました。

「ゆっくり無理せず」が柳本早百合流だそうです。

 

1.自己紹介

 私は福岡県で生まれした。3人姉妹の真ん中です。
父の転勤のため鹿児島・熊本・福岡・山口・広島・愛知で育ちました。
最後に福岡に戻ってきたので、私は福岡で保育士として就職しました。

しかし、正規で働いたのは2年だけです。
子どもを二人出産してからパートとして10年間保育士をしていました。

23歳で結婚、25歳出産というのは、当時は普通でしたが、目の前に来たことを受け入れ、あるがままに生きてきたという感じです。

だからといって、決して順風満帆だったわけではありません。人生は、思ってもいないことがいろいろやってきます。
それもご縁なので、目の前に来たことは、とりあえずやってみることにしています。

今回振り返ってみて、なんだかうまくいくものだというのが、振り返ってみての実感です。

 

ときには、思いもよらないことで、窮地に立つこともあります。
そんなときも、ご先祖様に守られていると思っていて、どうせうまくいくと考えているところがあり、あるがままで、無理はせずに前向きに進むようにしています。特に父か守ってくれていると感じます。

 

 

2.運転免許と事故

 私は運転免許を取ったのが遅かったのです。

私の周りは学生時代に運転免許を取得していましたが、私は全く興味がなかったので、取りませんでした。
33歳位のとき、ある時天から降ってきたように「今のうちに運転免許を取りなさい」という声が聞こえたのです。

 

そしたら、実家のお向かいの方から自分の家を借りて住んでくれないかと声をかけられました。
そこで、実家の近くに引っ越し、自転車通勤から車通勤をしなければいけなくなりました。

 

ある朝、都市高速の下の大きな柱に車がぶつかるという大事故があり、車が炎上していたのです。
外の車線は大渋滞で、ノロノロ運転で走っていました。
私は、その事故を見て脇見運転してしまい、前の車にぶつかってしまいました。
それで玉突きをして、自分の車とひとつ前の車は壊れたのですが、前の車とみんなの体は無事でした。

 

前の車の人は自分の車を確認し、「大丈夫」といってそのまま名前を言うことも聞かれることもなく、立ち去ってしまいました。

 

事故現場だから警察の方はたくさんいましたが、「気をつけなさいよ」と言われただけですみました。(もちろんきちんと事故の対処はしています)

 

誰もケガがなく、これですんだのは「ついてる、ついてる!」ついてる以外の何物でもありません。

 

 

3.厄払いに走り始めた

 事故を起こしたのは33歳。それは厄年だと気が付きました。

厄払いだと思って5キロマラソンに出ることにしました。

私はとても体が丈夫です。
丈夫に生み育ててくれたことは、親に感謝をしていますが、運動経験はほとんどありませんでした。

でも、これがきっかけで走り始めました。

5キロ、10キロ、ハーフマラソンとだんだん距離が伸びていきました。

結婚20周年記念に、夫を誘って初めてフルマラソンに挑戦しました。
種子島のロケット宇宙センターに向かって走るフルマラソン「たねがしまロケットマラソン」です。

よくフルマラソンは人生に例えられるのです。
登り坂も下り坂もあります。42キロを休みながらゆっくり行く人もいれば、さーっと行く人もいます。

 

私はゆっくりだけど、走り続けました。
夫は早く走って行ったのですが、途中で私が追いつきました。
少し行っては待っていたりしたのですが、途中から「先に行って」と言われました。

 

種子島は、山がたくさんあって、初心者の私たちにはとてもきついコースです。
途中で、ゴール迄あといくつ山があるのかと聞いたら、3つといわれたので、走ることにしました。
ところが、3つ目を超えたら4つ目もあり、結局全部で6つありました。

 

一生に1回と思って二人で参加した初フルマラソンでしたが、これにはまってしまいました。

 

指宿マラソンが良いといわれ、ここには10年通うことになりました。
鹿児島の人たちのおもてなしがとてもよくて、楽しいのです。

フルマラソンにはエイドといって、水やバナナ、おにぎりなど途中でエネルギーチャージするものが準備されています。

 

1回マラソンを走ると体重がずいぶん減る人もいるのですが、私はいつもいろいろいただくので、体重は全く減らないのです。

 

指宿マラソンは、規定時間が過ぎてエイドが全部片づけられても、自分の家の前で個人的にいろいろなものを出してくれ、すごく応援してくれるのです。

制限時間外にゴールをしても、完走証はもらえません。
しかし、地元の人が手作りして渡してくれたこともあります。

普通に走っていたら、見えなかった指宿のおもてなしが、歩くことで見えて、感動しました。

 

4.トライアスロンにもチャレンジ

 フルマラソンを始めた直後、主人はトライアスロンを勧められました。
横で聞いていた私にスタッフが
「自転車あげるよ。奥さんもしたら?」
と思ってもないことで声をかけられびっくりしました。

もうひとつの難関は、私は25メートルしか泳いだことがなかったこと。さすがに無理だろうと思っていました。

しかし、周りの人に「だいじょうぶだから」と乗せられ、スポーツクラブのプールで水泳を練習しました。
そして、海で泳ぐのはトライアスロンレースの日が初めてでした。

何度もライフガードの人たちに声をかけられ、「大丈夫です」といいながら、やっと泳ぎ切り、バイクもマラソンも完走することができました。

 

5.温泉はすごい!

 トライアスロンはもちろん、フルマラソンも身体に負担は大きいものです。
もういいかと思ったことろ、今度は「行橋~別府100kmウォーク」に挑戦することになりました。

人にいいよと言われたり、勧められたらとにかくやってみることにしています。
これも、誘われたので行ってみました。

50キロ以上は歩いたことはないので、できるかどうかわかりませんでしたが、24時間から25時間あったらできるはずと思ったのです。

結果はほとんど寝ずに歩きっぱなしで、25時間でゴールしました。

指宿マラソンのコースも、35キロあたりから上り坂になります。

この100キロも、70キロから上り坂になりました。ここからが大変!

ゼッケンに何回目の出場かが書いてあります。

初挑戦の私たち夫婦が、足が痛くなってゆっくり登っていると、明らかに年上の人たちがさっさと抜いていきます。

彼らのゼッケンから、5回目とか7回目だとわかり、年齢や体力だけではなく、経験が結果を出すのだと思いました。

主人もやめようとせず、100キロを二人一緒にゴールできました。

 

もう、めちゃくちゃ歩いたので、当然クタクタです。
ところが、別府温泉で疲れを癒して帰ったら、身体はなんともなく、翌日仕事に行けたのです。

温泉は本当に効きます。一緒に行った人で温泉に入らず帰った人は、やはり次の日はこたえたと言ってます。
私たちはビックリするほど何事もなかったです。温泉は、本当にすごいと思いました。

フルマラソンも100キロウォークも、もう私たちには体に悪いからやめましたが、楽しかっただけではなく、いろいろ気づかされることが多かったです。

 

マラソンは人生に似ている。それは、本当でした。

 

5キロからハーフマラソンまでは、一生懸命ただその距離を走るのですが、それより長くなると、そうはいきません。

自分のペースでいかないと、ゴールできないのです。
歩きたかったら歩けばいいし、急ぎたいときは、急ぐのもまたよし!

 

6.父の看取り

 20年位前の話です。
父は持病があったとはいえ、普通に生活ができる程度には元気だったのですが、ある朝急に体調が悪くなり、救急車で運ばれ入院しました。

会わせる家族には連絡を取るように言われ、群馬に住む妹に「今すぐ着て」と電話しました。
妹にとってはあまりに急で、腰を抜かし立てなくなったそうです。翌日、成田から始発の飛行機に乗ってきました。

父は入院してから意識不明で、丸1日は付きっ切りでした。
妹に会える迄待っていたのかと思いましたが、その後も意識不明でそのまま3日間が経ちました。

 

4日目に目を覚まして「ありがとう」といったのです。
もう、誰が見ても難しいという状況でしたが、伝えたい人に「ありがとう」が伝えられていなかったから戻ってきたように思いました。

はっきり「ありがとう」と声がでるわけではないのですが、ちゃんとありがとうと言っているのがわかるのです。

父と親類縁者やゆかりある人たちが来るたびに、私が「お父さん、お父さん」と呼ぶと、その度に帰ってきて「ありがとう」というのです。

 

私以外の人が読んでも返事はなかったのですが、呼びかけに反応するのをみていて、身体から離れて30-50センチ上にいる父が自分の体に戻ってきて、返事をしているようだと感じました。

 

私たちは、延命はしないと決めていたので、父はチューブにはつながれていませんでした。

 

「明日は最後かも」と言われた翌日、自然のまま逝っていただきましょうと医者から言われ、さらに「今日は声をかけないで、静かに見守ってください」と言われたのです。

 

最期の時、また声を出しそうになったけど、みんなで見守り、自然に息を引き取りました。

71歳でした。

 

7.笑いヨガに出会ったわけ

 私はマラソンも人生も、無理をせずゆっくり自然なままに行きたいタイプです。

 

今は実家が二世帯住宅になり、実母がそばにいるのですが、将来母の介護に役立つかもと考え、ヘルパー2級の資格を取りました。庭の草取りをしてその話をお隣の方としたら、週1回でも働いて欲しいと頼まれ、高齢者施設で働くことになりました。

 

働き始めたら、今度は施設の方からもう少し来てくれと頼まれ、週2回、3回と増えていき、ついに介護福祉士の資格も取りました。

自分の意志というよりは、思ってもいないことがやってきて、それを拒まなかった結果です。

 

介護の仕事に役立つよう、レクリエーションを勉強したり、シニアの体操を学んだりしました。

そこで、ぎっくり腰になってしまったのです。

思いもしないことで、とてもひどい状態とはいえ3か月で何とかなり、4か月で仕事に復帰できる状態になったのですが、そこで心が折れました。

お年寄りを転ばすわけにはいきません。今の自分にそれができるのかと考えたら、仕事復帰に躊躇する自分がいました。
半年後に職場復帰したのですが、やっぱり自分自身の健康管理もできていないと考え、仕事は辞めました。

 

もともと60歳を過ぎたらボランティアをやりたいと思っていたこともあり、シニアの体操指導者を目指しました。
福岡市は、60歳になったら老人センターに指導者・参加者の登録ができるのですが、シニアの体操を教えられると手を挙げ、やりはじめました。

 

シニアの体操で何か良いネタはないのかと探していたところ、「笑いヨガ」を新聞で見て、興味を持ち、1時間かかる場所にある笑いクラブを見つけて参加しました。

主宰者から笑いヨガリーダー講座のお知らせをいただき、笑いヨガリーダーになったものの、体操の教室で忙しかったので、なかなか笑いヨガに足は向かなかったのです。

しかし、忘れてはいけないと思ったので、笑いヨガをやっているところを探しては2,3か月に1度位あちこちの笑いヨガに参加していたところ、コロナ禍が始まってしまいました。

 

コロナ禍になって、オンラインで東京にいる高田佳子さんの講座も受けることができ、ティーチャー養成講座もオンラインで受講することができました。

それでZoomも慣れてきたので、今は福岡市に登録してやっている講座も、Zoomも活用しています。

しかし、参加する皆さんは全員60歳以上ですし、なかなかオンラインは難しいのですが、それでもチャレンジしてくれる方々と一緒に月1回は体操をしています。

 

だいたい月10回位は、シニアの体操のボランティアをしていて、土日だけ主人のお蕎麦カフェを手伝っています。

これからも、ワクワクすることに出会ったら、自分も進化していって、楽しいことを周りの人にお伝えしたいと思います。

自分を振り返ることをしていなかったので、良い機会をいただきました。

以上

 

===

 

柳本さんのお話を伺い、次の言葉を思い出しました。

 

人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない。
by キルケゴール(哲学者)

 

前向きに生き続けることは大事だけど、振り返ることで人生の味わいが深まりそうです。

ありがとうございました。

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