(笑い人)今、私がここにたどりついたのは

 

 「わぁ!男前だわー」

松岡千恵子さんは、保育士として長年活躍してこられた女性です。
2021年6月19日、オンラインサロン笑い道のルナ会(月例会)でこんな声が聞こえました。

笑いヨガや他のことでも活躍中の彼女の生き様に、超高齢社会の現代の中で、皆がその見事さに感嘆の声をあげました。

人はいつか死ぬ。

誰でもがわかっていることですが「それは明日ではない」と思い込みながら、いつまでも仕度が始められない私たちに、喝を入れてくれました。

1.今の私

 
 私の住む町栃木県足利市には、3つの日本一があります。足利フラワーパークの藤の花、伊万里焼のコレクション日本一の栗田美術館、そして皆さんもご存じの足利学校です。日本最古の学校です。

 定年まで足利市で保育士として勤めました。その後短大の講師を2年間、そしてその系列の私立保育園で保育の管理職を育成する任を追って6年間園長をしていました。

 定年退職と同時に同居していた叔母が亡くなり一人暮らしとなりました。これはまずいと感じて何かをしなくてはと思った時に、新聞の切り抜きを取っておいた笑いヨガを思い出しました。早速ネットで調べ、東京の日本笑いヨガ協会の笑いヨガリーダー養成講座を受講しました。

 そこで、富士山の前で笑っている写真に惹かれ、笑いヨガティーチャー養成講座にも申し込みました。

 しかし、実際行く段になると、座骨神経痛が痛んでどうしようかと思ったのです。電車移動は無理な状態で、車を自分で運転して行きました。笑いヨガティーチャー養成講座は朝7時から夜遅くまでの合宿研修ですが、笑っているうちに、痛みはどこかに飛んでいき、帰りはいい気分で足利まで戻ったのです。

笑いヨガは、運動嫌いの私でも簡単にできるものでした。ストレス解消にはもってこいです。これを、足利の保育士仲間やストレスを抱えているお母さんたちに教えてあげたいと思いました。

私の後輩たちも引退が近づいてきたので、日本笑いヨガ協会の高田佳子先生を招いて笑いヨガリーダー養成講座を開催し、その後笑いクラブを2クラブ結成しました。

今はコロナで一時中断していた活動も開始し、子育て支援施設で笑いヨガを母親と楽しんだり、笑いクラブを定期的にやっています。
デイサービス施設での活動も7月から開始します。

 ちょっとした興味だった笑いヨガに、今ではすっかりはまっています。

 

2.偶然から保育士になる

保育士として、働いてきたのですが、保育士になるのが夢だったわけではありません。
私の人生、全ては人の縁と思える出会いでここまで来たのだと思います。

父と母は従姉弟同士で、足利から父の実家である足尾に嫁ぎました。
私は銅山で有名な足尾で生まれています。

父は7人弟妹の長男で、生家は布団屋や、質屋、塩やタバコを扱う事業を手広くやっていました。
私の幼少期は、14人家族が一緒の家に住み、とても賑やかでした。

親子兄弟で家業をやっていましたが、足尾銅山がさびれ、事業も順調とはいかなくなりました。
父本人も、嫁である母も商売向きではありませんでした。
次男が後を継ぐことになり、私たち家族は母の実家である足利に移ったのは、私が小学校4年生の時でした。
学年の途中転校はすごくつらかったのです。

しかし、叔父(母の弟)がその学校にいて助けられて、馴染むことができました。中学校にも別の叔父がいました。
母の兄弟は6人で、両親をはじめとして兄弟4人が教師でした。母の実家に、祖父母、叔父叔母、私たち家族と8人家族で約5年間同居しました。

私が高校に入学したときに、父が転職し社宅に入ることができ、初めて家族4年の生活ができました。
私は将来は教師になりたいと思っていましたが、経済的な理由から大学進学をあきらめ、学費がかからない看護師になりたいと思うようになりました。

しかし腎臓を患い入院したことがあり、看護師の仕事の大変さを理解している父の猛反対に会いました。
結局、話し合って保健師になる学校に進むことになったのですが、私の高校3年の11月末、父は腎臓病で44歳で亡くなってしまったのです。

母は専業主婦だったので、私は進学を断念し、働くことにしました。
学校で事情を話し相談すると、担任は12月でもう就職を探すのは遅いというのです。

そのやりとり聞いていた別の先生が、奥さんの勤める専門学校の事務職を紹介してくれ、正職員として雇ってもらえることになりました。

 昼間働き夜その学校で学ぶことはできたのですが、そこは洋裁学校でした。洋裁は、私は大の苦手です。

一緒に同期で入社した女性から、「本当は保育士になりたい。一緒に保育士になる勉強をしないか」と誘われ、つきあいで通信教育のコースを受講し始めました。

8科目の試験を全部合格したら、保育士の資格が得られます。
ピアノなんて弾いたこともなかったので、子どもたちに混じって一生懸命練習しました。
そのピアノの先生が、保育所で働きたいなら、現場を見学しておいた方がいいとアドバイスをくれました。

そこで、近所の保育所に見学を申し込みました。
そこの保育所長から「10月の試験に合格したら、報告に来てね」と言われました。
無事合格できたので、報告に行ったところ、うちで働かないかと声をかけられたのです。
しかし、私は家族を養っていたので、不安定な身分では転職できないと伝えました。
すると、所長は市役所に掛け合ってくれて、1月から市の正規採用の職員になったのです。

 当時は現場で経験を積んでから採用されるのが普通でした。
しかし、たまたま実験保育所として有資格者の数をそろえる必要があり、経験はなかったけれど採用となりました。

 私に一緒に勉強をしようと声をかけてくれた人は、結局主婦になりましたが、今も親友です。
付き合いで勉強した私が保育の世界で生きることになりました。偶然が運んでくれた縁ですね。

 

3.アドラー心理学との出会い

 保育士の仕事は、楽しい反面ハードでした。
厳しい上司もいましたし、慣れないこともありましたが、そこで本当にいろいろなことを学びました。

私が保育士になったばかりの頃は、内職をするお母さんのために保育園は9時半から3時半位が中心で、のんびりしていました。
職場の理解もあり、夜間の短大に行かせてもらい、幼稚園教諭と小学校教員(二種)免許を取りました。

 昭和40年代後半になると、女性が働く時代へと変化してきました。
内職よりも外に出て働く女性が多くなり、保育の多様性が望まれるようになってきました。公立保育所なので転勤で、いろいろな保育所を経験しました。。

 主任保育士になって3年目に、所長と保育士たちが対立し、人間関係が複雑な保育所に転勤になりました。
社会情勢が大きく変化し、乳児保育や障害児保育などを行うようになり、生後3か月の子どもを預かることも未経験で大変でした。

人間関係が複雑で、保育所長との間、同僚との間、保護者との間で、強烈なストレスでした。
本当ににっちもさっちもいかないという状態に陥りました。

私は登園拒否のようになりました。

朝、登園しようとすると、具合が悪くなるのです。

アドラー心理学に出会ったのは、そんなときです。
福祉部長がアドラー心理学に傾倒し保健婦や保育士に呼び掛けてくれ、藁をもすがりたかった私が飛びついたのです。

アドラー心理学の第一人者である野田俊作先生や、岩井俊憲先生が足利に来てくださいました。
そして、私は毎月東京に通い、アドラー心理学を学びました。

この学びで、人間関係が全てうまくいくようになったのです。

アドラー心理学では、

「自分の人生の主人公は自分」

「人間の行動には目的がある」

「人間の生き方にはその人特有のスタイルがある」と考え「勇気づけ」をしていきます。

それまでは、「問題」しか見えてなかったのですが、「解決の糸口」が見えるようになり、自分がどう対処すればうまく行くのかが、見えるようになったのです。

これを学び、ビックリするほど人間関係が変わりました。これまではなんだったのかと思うほど、円滑に進むようになったのです。
また、問題やクレームも、上手に対処できるようになりました。

それまでは、自分が嫌いで、そんな自分を何とかしようとし、挫折しては自己嫌悪を繰り返していました。
しかしアドラー心理学のおかげで、「嫌な自分も自分なのだ。その人特有のライフスタイルがあるから、自分の嫌いな部分がある。
だから、嫌いな部分をそのまま受け入れられる自分は素敵!!」と自分で自分を勇気づけることで、ポジュテブに何事も捉えられる心に変容していきました。

 何が起きても、自分の中で上手に転換でき、人との関係がスムーズになり、悩むことが少なくなりました。

私だけではなく、人はみな問題が起きると原因を探しがちですが、
「何で?」「どうして?」ではなく「どうなったらいい?」「どうしたい?」
と発想できるようになり、自分の中で思考の道が広げられるようになったのです。

1999年にタイムカプセルを埋めてから20年経ち、それを開くイベントが開かれました。

幼かった子どもたちは皆、成人し大学生や、社会人になっていました。元気な様子を確認し、誇らしくそして本当に嬉しかったです。

たまたま出会った保育士という仕事ですが、アドラー心理学に出会ったおかげで、いい仕事に携わることができたと心から思えるのです。

 

4.死んだら何にもできない

私の父は44歳でなくなりました。
その前にも戦争で罹患したマラリアの関係で病弱ではありましたが、18歳で初めて身近な死の体験したのです。

父の死後1年も経たないうちに、がんで祖父(父の親)が亡くなりました。

「病院では死にたくない」といっていた母ががんとわかったときは、余命3か月と告知されました。
働いていましたので、いろいろなことがありましたが、本人の希望通り、家で看取ることができました。 

母の姉弟たち、叔父叔母は私が看取りました。

人それぞれの死に方がありました。

そこで学んだことは、「死んだら何もできない」ということです。

残された者が、全部後のことを引き受けなければなりません。

だからこそ、自分自身の最期は、生きて残される者への後始末を減らしたいと思っています。

私は独身で子どもがいませんので、若いある友人に、死後の後始末を頼みました。

「遺言公正証書」と「任意後継契約及び死後事務委任契約公正証書」がないと、親族以外の人が埋葬するのは大変なようなので、友人と契約書を取り交わしました。

いつ死んでもいいように、お寺で戒名をいただきました。

永代供養の費用も支払い済です。

今は一人で住んでいる、大きな家を片付けつつあります。

いろいろなものを処理するのに、体力・気力、場合によってはお金も必要です。

自分一人でできない場合は、お金を出してプロの助けを借りています。プロは手早く時間の節約にはなりますが、お金がかかります。

できる限り、自分でやるようにしようと思っていますが、どうなることやら・・・。

定年退職を機に笑いヨガを始めましたが、これは、皆が喜んでくれる活動です。
自分のために始めた笑いヨガが少しでも、周りの人たちの役に立つならこれに越したことはありません。

今、はまっているのはヘルマンハープという楽器です。楽譜が読めなくても美しい音で奏でることができます。

 

 そして、今年の4月から始めたのが「御詠歌」です。これがまた難しく、撞木がうまく扱えず鉦が打てない等々、悪戦苦闘の連続です。
記憶力が悪くなり、何度練習しても詩が暗記できないのにはビックリ!!

死んだら何もできない。

だから、生きている今を、日々楽しんでいます。

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