夫からの最後のプレゼント

夫からの最後のプレゼント

2022年12月のルナ会(オンラインサロン笑い道の月例会)は、大阪府富田林市在住の那須頼子さんにお話しいただきました。

すごくきれいなお肌と笑顔がステキな女性です。
いつも笑顔でいる秘密、いろいろ教えていただきました。

 

 

名前通りに育ちました

那須頼子です。今日はよろしくお願いします。

私は大阪のおばちゃんと思われていますが、実は1948年2月埼玉県浦和市生まれです。
私が生まれて100日目に父が急死しました。

母は、一人でが赤ん坊を育てられないと考え、私を連れて大阪の実家に帰りました。
祖父母の他、周りは大人ばかりでした。
私の名前は頼子ですが、その名の通り依頼心の強い、頼るのが上手な子に育ちました。

 

私が8歳の時、母から「お父さん欲しいか?」と聞かれました。

私はお父さんはどこで買えるのかしらと思いながら「欲しい」と答えたので、母は再婚しました。
二人ともが再婚だったので、お父さんだけではなく兄姉もできました。

父は穏やかな人で、新しい家族の中でも一番年下なので、良く面倒を見てもらいながら、何不自由なく育ててもらいました。

短大を卒業し、2年間保育士として働きましたが、すぐに結婚しました。
母と主人が従姉弟同士という遠い親戚なのですが、彼だったらゆくゆくは私の母の面倒も見てくれるだろうという親戚の思惑もあったと思います。

夫25歳、私23歳の時でした。幸い二人の娘にも恵まれ、専業主婦としての生活を続けていました。

 

 

44歳で就職

次女が中学を卒業するのをきっかけに、娘たちの勧めで働くことにしました。

少しは世間の役に立つ仕事をしたいと思ったのですが、仕事の経験も少なく、すでに44歳になっていました。
本当のところそんなに選ぶ余地はなかったのですが、薬や化粧品を扱っている会社の店舗販売員に応募し、面接に行きました。

運の良いことに、面接の最後に「いつから来れますか」と聞かれ、そのまま採用になりました。
あとから聞いたら、すごい美人だったら断る予定だったというのです。
でも、その時に応募したのは私一人だったので、無事仕事が見つかりました。

 

しかし、健康食品と化粧品の販売の仕事なのに、その頃の私はほとんど化粧もしていなくて、顔は真っ黒、シワシワでカサカサだったのです。
だから、下を向いて掃除ばっかりしていました。

化粧品メーカーから派遣されている美容部員さんからは、「その顔で化粧品コーナーに立つの?」と言われたのです。

お店の人に教えてもらいながら、クレンジング、洗顔、化粧水、乳液だけ少し高価なものを買い求め、手入れを始めました。

年だから、いまさら手入れしてもという気持ちもありましたが、仕事をがんばりたいという想いで手入れを続けていました。

私の数少ない自慢は、小・中・高・短大と、学校は一度も休んだことがなく、皆勤賞だったということです。
だから仕事も休みたくなかったです。何とか休まず仕事を続けているうちに、お客様から「どんな化粧品使っているの?」と声を掛けられるようになってきました。

仕事も慣れた頃で、どんどん仕事がおもしろくなっていきました。

しばらくは、休まず働き続けてきました。

 

 

笑いヨガに出会う

私は健康には自信があったのですが、年のせいか、足が痛くなってきました。
受診すると、変形性股関節症で、このままだと歩けなくなると言われ、手術が決まりました。

ところが、手術のためにやった検査で糖尿病の数値がひどく、手術ができない状態だと言われたのです。

血糖値は病院食だとすぐに下げられるそうですが、ヘモグロビンエーワンシーという(HbA1c)過去1-2か月の血糖値の平均が現れる数値が高く、これを9から7まで下げなければいけないと言われたのです。

痛みがあって運動はできません、薬と食事です。
キノコ、海藻、コンニャク等が中心の食生活で、大好きなケーキやお菓子はもちろんダメです。

 

さすがに仕事にも行けなかったので、家でテレビを観ていたら、「まちの人間国宝」が紹介される番組で、笑いヨガというのをやっていました。
「これは、私にピッタリだ!」と思い、すぐに調べて日本笑いヨガ協会に行きつき、『一人でできる笑いヨガ』(現在は完売在庫無し)というDVDを購入しました。
しかし、インド人の男性が出演していて、グルとか言っているので、なんだか怪しくて、そのまま放置していました。

 

左の股関節を手術予定だったのですが、そうこうしているうちに右の股関節も壊死してしまい、手術が必要になりました。もう、痛くて痛くて寝ていても目が覚めるほどでした。

 

糖尿病の数値が手術可能になったとき、左と右を同時に最短で、手術していただきました。
私は一刻も早く仕事に復帰したかったのです。

 

手術後、足の長さが左右で差が出るので、それを調整してくれる靴屋さんを紹介されました。
その靴屋さんこそ「まちの人間国宝」としてテレビで紹介されて、私が笑いヨガに興味を持つきっかけとなった池川成子さんだったのです。

私は笑いヨガをやりたいので、できる場所を紹介してくれるようお願いしました。
ちょうど大阪市内で笑いヨガリーダー養成講座があるから受講するように勧められました。

ただ、笑いヨガをやってみたいだけなんて、リーダーになるなんてと思いましたが、そこに参加して高田佳子さんに出会ったことがラッキーでした。2013年2月のことです。

私は笑いヨガをたいへん気に入り、受講後は家で毎日笑いヨガをやろうとしました。しかし、お父さん(夫)が「家で大声で笑うな」というのです。
でも、小さな声だとスッキリしません。池川さんに相談したら、笑いクラブを始めればいいと言われ、彼女の助けを借りながら自分で「富田林笑いクラブ」を始め、月に1回みんなで笑っていました。

 

それからは、高田佳子さんが大阪に来るときは、必ず出かけて行きました。笑いヨガリーダー養成講座の再受講や大阪888笑いクラブ、他の勉強会も全部参加していました。
夫は私の笑いヨガの活動には、そんなに好意的ではなかったのですが、私がイキイキと笑いヨガをやっていることは、よくわかっていたと思います。

夫は厳格な性格で、自分自身も家族にもルールは必ず守らせます。

長女が結婚した際、「一番良かったことは門限が無くなったこと!」と言ったほどなのです。その門限は、娘たちだけではなく、私にも適用されていました。
そんな風でしたから、大阪市内の講座は門限迄に帰れますが、富士吉田で合宿で行われる笑いヨガティーチャー養成講座への参加は憚られました。

 

2日のリーダー養成講座でもこんなに楽しいのだから、5日の講座だとどんなに楽しいだろうかと思っていたのですが、仕事もありましたので言い出せないでいました。

 

 

背中を押されてティーチャー養成講座へ

2018年の笑いヨガティーチャー養成講座をテーブルに置いていたのを観て、お父さんの方から「おまえ、これ行きたいのとちゃうか? 行っておいで」と言ってくれたのです。

気の変わらないうちに、さっさと申し込み、「お金も払ったからね、行くからね」と宣言していました。

 

その頃、夫はたんがからんだような咳をするようになり、肺がんが見つかりました。

手術ができない場所であるとの説明を受け、放射線治療と4回の抗がん剤治療をしました。
脳に転移することが多いからといって脳も治療してもらい、3月にはレントゲンでみる限り、きれいに消えてますとのことで、早期発見、早期治療できてよかったと、家族みんなで喜びました。

2人のツーショット写真はほとんどないのですが、夫の入院中娘が撮ってくれたものです。

 

4月になると、ノルディックウォークが大好きで朝晩歩いていたお父さんが、家でゴロゴロすることが多くなりました。

放射線治療や抗がん剤治療をあれだけやったのだから、疲れていても仕方ないと思っていました。
能天気な私は、すっかり完治したと信じていたので、着々とG.W.に開催される笑いヨガティーチャー養成講座に向けて、準備を進めていました。

 

有頂天で、体調が悪いことに気がついてあげられなかったのかもしれません。

 

顔色は悪く、体調は悪そうだったのですが、私の荷造りや宅急便の手配等、出発準備もずいぶん手伝ってくれたのです。

 

出発の前の晩、お父さんが「明日は送ってやれないから、タクシー予約しとけよ」と言ったのです。
どこに行くのもだいたい送ってくれたのですが、朝早いからだろうと思い、タクシーを予約しました。

 

「病院行った方がいいのと違う?」と聞くと、「連休明けに病院の予約してるから、その時いくから大丈夫」と言いました。

 

後から思うと、病院に行って即入院ということになったら、私を富士山に行かせてやれないと思っていたのかもしれません。

 

あまりに辛そうにしているとき、私は
「行くのやめようか」と言ったことがあります。

お父さんは、
「お前、行かなかったら後悔するやろ。お前には笑いヨガしかないやろ。俺も行かせなかったら後悔するから、心配せんと行ってこい」と言ってくれたのです。

 

私が出発した日の夕方、娘がやってきて水も飲めないようなお父さんをみて、即病院に連れて行き、即入院したのです。

 

それでもお父さんは「お母さんには言うなよ」と娘に口止めしたので、私には知らされませんでした。

最終日の前日、病院の担当医から私に電話がかかってきて「すぐに帰って来ることはできませんか」というのです。

 

私は驚き、もちろん慌てました。
しかし、その日はもう帰ることができず、翌朝始発の東京行きのバスに乗り、新幹線で大阪に向かうことにしました。

 

1日を残して帰ることになったのですが、もう教えることは全て終わっているからと、全ての課程を終えてはいないのに、修了証書をいただきました。

 

 

ドキドキしながら富田林の病院に向かいました。
お父さんに修了証を見せたら「良かったな。高田先生にも迷惑かけたな」といいながらも、私の見せる富士での写真をとても喜んでくれました。そして、その8日後に亡くなりました。

 

 

お父さんから最後のプレゼント

お父さんが亡くなり、寂しさはあります。
また、体調の悪い夫を置いて講座に行って本当に良かったのかと思うこともありました。

しかし、娘が言ってくれるのです。

「お父さんは、お母さんに自由な時間をプレゼントしてくれたんだって考えればいいよ。好きなだけ笑いヨガ三昧で暮らしていけばいい」と応援してくれています。

 

家族で相談して、こんなお墓もつくりました。

お父さんはなぜかくまモンが大好きで、ぬいぐるみを持っていました。
私たちも、みんなでくまモンのTシャツを着たりしていました。

「笑」という文字が私、それを抱くくまモンのデザインのお墓です。

 

 

20年、専業主婦だった私が仕事をできたこと。
化粧品のことを知らなくても、サンプルを渡して良かったら買ってくれた商品とお客様に恵まれたこと。
股関節を痛めたことで糖尿病が発見できたこと、そして手術待ちで家にいたから、テレビを観て笑いヨガを知れたこと。

いろんなことが、今の笑いヨガ人生につながりました。

2020年得体のしれないコロナが始まり、世界中が戦々恐々としました。
私の職場も1か月休業になりましたし、娘からも不要不急でない限り、外に出ないようにと言われてました。

 

でも、この年のゴールデンウィークの笑いヨガティーチャー養成講座に再チャレンジの予定で申し込みをしていたのです。2017年の笑いヨガティーチャー養成講座では、ティーチャー認定の証書はいただきましたが、最後まで終えられていないことが気になっていたのです。

 

G.W.の講座は延期になりましたが、高田佳子さんは、Zoomを使ってすぐに新しい方法でオンライン講座を始めました。
パソコン操作もままならない私は、日本笑いヨガ協会のスタッフやまたまた池川さんにもお世話になりました。

 

そしてオンラインサロンができてからは、本当にいろいろな人に教えてもらいながら、どうにかこうにかついていくことができました。

コロナ禍の中、店の改修工事をきっかけに約30年働いた仕事も退職しました。
私にとっては2回目の笑いヨガティーチャー養成講座は延期でしたが11月に開催され、再び富士山合宿にも参加できました。今度は本当に修了することができ、感無量でした。

コロナに罹患された方や亡くなった方もいるので不謹慎かもしれませんが、コロナがあったからこそ、深く笑いヨガを学び、全国の仲間とつながれ、こうやって毎日笑っていられること、心から感謝しています。

 

「お前には笑いヨガしかないやろ」と言ってくれたお父さんの声、今も聞こえます。

 

私のこれからの人生、笑いヨガ三昧で進みます。ありがとうございました。

 

1 個のコメント

  • 素晴らしい笑いヨガとの出会いだったのですね。
    ピンチがチャンス✌と私もいつも前向きに考えるようにしているのですが、それを実際に実行した那須さんは凄いです。
    私はまだZoomとか経験したことが無いので今後のスキルアップにしたいと那須さんから学びました。ありがとうございました。

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