(笑い人)夫婦笑いヨガにいたるまで

夫婦笑いヨガにいたるまで

後藤ひとみさんは2022年、後藤康夫さんは2023年にティーチャー養成講座に参加され、奈良県でお二人で活動されています。
2023年7月のオンラインサロン笑い道のルナ会(月例会)に『笑いヨガが我が夫婦にもたらしたもの』というタイトルでご登壇いただだきました。

その日は奥様のひとみさんの65歳の誕生日という特別な日で、お二人交互にお話しいただきました。
ここでは、後藤ひとみさんの物語にフォーカスしてご紹介させていただきます。

 

生きる力を与えられた過酷な子ども時代

私の生まれ育ったのは、惨憺たる家庭でした。
父のアルコール問題、貧困、DVと普通だったら母は離婚するべき状況だったのですが、共依存関係で出来なかったのです。

両親は昭和2年生まれ、子供時代から青春時代を戦争の中を生き延びて来た人達でした。戦争で家族や財産を失い、価値観の大きな変換を余儀なく生きた時代の人だったせいもあるかもしれません。
姉の誕生後、母は姉との間で母子カプセルを形成していました。父がああなったのは、母の問題だったかもしれません。

2人目は男子を期待し、難産で生まれた私は望まなかった女の子。
両親の失望は大きく、私は両親のストレス発散の対象として身体的・精神的虐待を受けながら育ちました。
子どもは、どんな親からも逃げ出す事は出来ません。そして当時はSOSを出せる場所もありませんでした。

周囲からは、人の良い子煩悩な父親、良くできた昭和の女性に映っていたと思います。

父は私が小学校5年生の時に交通事故で突然亡くなりました。

母は、周囲の人に恵まれ経済的には自立できました。
しかし、父亡き後は長子である中学生の姉を主人として扱い、精神的安定を図ったのです。そして姉が家族を支配するようになり、私は結婚するまでこの家族という病に苦しめられました。

「絶対に経済的・精神的に自立して生きる」という固い決意を持つようになったのは、こういう環境だったからです。

 

実際に家を出て就職、結婚して家庭の中で、どんな問題があっても、子ども時代に比べたら、どうって事ないと思う事ができたのです。
この頃培った生きる力は、今も持ち続けています。

 

自立して生きるために選んだ職業とご縁の始まり

経済的・精神的に自立できる仕事、自分の存在感が認められる仕事に就きたいと思い、看護師になりました。

高等学校の衛生看護科選択し、卒業と同時に准看護師試験に合格。日本育英会奨学金やアルバイト等で母への経済的負担を少なくしながら三重県立看護短期大学へ進学しました。

実は、この看護短大時代に今に繋がる運命的な出会いがありました。

通学の途中で当時1日1本だけ走っていた名古屋~橿原神宮への特急電車のアナウンスを聞き、初めて「橿原神宮」の存在を知りました。
奈良にある神武天皇の祀られている神社です。そのとき「行きたい」と思った事を覚えています。
今は、橿原神宮へも歩いて行ける場所に住んでいます。

 

 

短大2年生の夏休み、鈴鹿市の鼓が浦海水浴場で救護のアルバイトをしました。
救護施設の管理をしていた海の家が、5か月後に新年度入職者として出会う事になる夫の祖母の実家だったのです。
夫は子供の頃、夏になるとよく祖母に連れられて遊びに行っていた家でした。

その事は、結婚3年目で亡くなった夫の祖母のお葬式で分かった事なのです。
赤い糸か腐れ縁なのか分かりませんが、そこから繋がっていたのは感慨深いです。

夫の退職を機に奈良に移住し2人での生活になりました。たまたま短大時代の同級生から絶妙なタイミングで仕事を紹介されました。

2022年5月に橿原市に引っ越した記念として、橿原神宮へ献灯しました。

人生色々な事がありますが、この看護短大の2年間のご縁が、今も繋がっていて、運命を大きく変えてきました。
この場所から、また素晴らしい事が始まりそうな予感です。

 

仕事と大学進学の両立~結婚と子育て

1979年4月、今では笑いヨガの相方でもある夫と同じ医療法人に就職。私は看護師、夫は事務職員でした。

看護師寮から通学に便利な場所に日本福祉大学夜間部がある事を知り、入学を希望しました。
43年前に病棟勤務の看護師が夜間大学に通学する事は前代未聞!退職を迫る発言などもありました。

社会福祉を学びたかった私は意思を貫き、3交代勤務を続ける事や勤務時間を優先する等のすり合わせをし、何とか納得いただき入学しました。
大学は編入学可能でしたが、後に続く人にも働きながら学業を続けることが可能である事を示したく、編入を選びませんでした。

夫は英語の和訳、行政訴訟法のレポートの手伝いや大学への送迎等、私を支えてくれました。無事4年で卒業できました。

当時は婚礼道具が結婚式の派手さを競う時代、母は満足する婚礼準備を整えらないこと、婚家から片親としての負い目を受けることを心配しました。
私は結納金0で、家具・電気製品・着物一式、遜色なき花嫁道具と持参金を持ち、婚家の両親に対しても胸を張り、母に恥をかかせる事なく就職5年で夫と結婚しました。

私は自分の幼児体験が大変なものだったので、結婚に際し、子どもはつくらない、育てられないと、夫には理解してもらっていました。

しかし、「嫁して3年子無しは去れ」という時代です。
夫の家族からのプレッシャーに耐えられず、夫を失いたくない気持ちで、覚悟を決め子供を産む事にしました。

 

育児中は幼児体験が何度もフラッシュバックすることがありました。
しかし、自分子供の頃に体験したくても出来なかった事を全て体験させたい、経済的理由で生き方の選択肢を狭めたくないと思いが強く、住宅ローン・教育費の為、2人で一生懸命働きました。

私は病院からの夜間の呼び出しだけでなく、出張も多く、必死で毎日走り続けているというほど日々働きました。

そんな日々の中で、特別に大好きな仕事は学会発表で登壇する事でした。

発表のために整理することで、頭も気持ちも自分らしくいられる時間でした。

 

本当の夫婦になれた

今は仲良し夫婦ですが、最初からこうだったわけではありません。
男性は当時は家事とか育児を殆ど手伝わず、仕事オンリー、世間体が一番大事という人が多かったのですが、夫もそんな一人でした。

本当の夫婦になれた出来事が起こりました。

1997年(26年前)の7月の事。
いきなり姑が、末期がんで入院したのです。 

私は、職場に介護休暇を申し出たのですが、そんなにすぐには無理だと言われました。
そこで私は看護師として通常勤務を行いながら、昼休み時間や夜は姑の病室に付き添いをして誠心誠意尽くしました。

嫁姑で何もないはずがありません。義母と私は同じ家に嫁として嫁ぎ、家に縛られて生きてきた者同志で、共感しあい理解し合えたと感じる事の出来たひと時でもありました。

姑は8月を待たずに、7月31日に旅立ちました。

 

こう言っては申し訳ないですが、自分に出来る精一杯の看病をしたので、送ったあと何の心残りもなく、これで卒嫁させて頂きました。
もちろん夫も時間のある限り病室にやってきて、2人で一生懸命看病したのです。

やるだけの事をやったからこそ、もうお母さんさようならと2人で言えました。この時に、本当の夫婦になれたのだと思います。

 

自分の後始末を考える生き方へ

どこの家も同じでしょうが、一人の人間が亡くなると、色々な事があります。

義母は義父の亡くなった後、私達の自宅近くで1人暮らしを始め9年程。遺品は少ない方だと思いますが、それでも遺品整理はとにかく大変でした。

事務処理は、全て夫が担当。
お通夜や葬儀、法要等やらなければならない事が沢山あり、膨大な時間と多額の費用が掛かります。精神的ストレスも大きかったのです。

この思いを自分の娘にはさせたくないと思いました。

 

姑の看取りを終えたとき、看護師としてターミナルケアの方を最後までしっかり看取る経験をし、卒嫁も出来て万歳だったのですが、看護や医療はもう充分やったという気持ちになり、その年の末で退職しました。

 

しばらく専業主婦をしていましたが、ちょうど介護保険が始まる時ころ、夫の勧めでケアマネ試験を受ける事にしました。
夫もこの事業の担当者になることが決まっており、お互いに介護保険事業に携わる事で、仕事に関しての情報交換、人の紹介、アドバイス等、仕事上でも良い関係になれました。

2013年には、奈良県橿原市に助産師として1人暮らししている娘の為、セカンドハウスを新築しました。

夫は介護保険事業から病院勤務へ配置転換 私はケアマネ業務から地域包括支援センターで介護予防事業の担当に代わっており、楽しく継続できる介護予防の方法を模索していました。私達は月に1~2回 名古屋と奈良の間を行き来して、しばし楽しい家族団欒を感じ、遅まきながら、子どもを授かった事の喜びを初めて感じていました。

この頃は、娘へ人間としての生き方を、私の姿勢を観ながら考えて欲しいと思っていました。

ところが、2014年に娘は結婚。家を出て新生活を始めました。
しばし3人の楽しい思い出をこの家に残したのが私にとっては残酷でした。

私達夫婦が考えている幸せと娘の求めている幸せは違っていました。

もちろん娘自身の人生であり、本人の選択と頭では分かっているのですが、働く意欲と人生の役割の消失感から、55歳で退職、引きこもり生活に入りました。

そうこうしているうちに、夫も65歳で43年務めた法人の定年退職を迎えたのを機に、セカンドハウスとして建てた奈良県橿原市へ引っ越し、2人で心機一転楽しもうという事になりました。

 

転居準備として、両家の両親や祖父母の永代供養、婚家の墓は30年間の管理料及び撤去費用の前払い。
命日の定期献花や両家のお盆の施餓鬼・お盆や正月のお布施も振込やネットバンクを活用。
私の実家の墓はお寺の境内にありご住職がお世話して下さってます。

お墓参りは、スマホです。
それぞれのお墓の写真を準備して、2人で般若心経をあげています。

私達も便利なサービスを享受させていただいていますが、次世代には、負担をかけないと決めています。

 

笑いヨガとの出会い

60歳になった頃、高齢者対象のイベント手伝いで笑いヨガに出会い、興味を惹かれました。

その後、名古屋市医師会の災害時ボランティアに登録しました。
現場を長く離れている看護師ではなく、精神保健福祉士として登録しました。

コロナ禍であったり、災害時に人々の心を癒す方法を考えた時、笑いヨガはいつでもどこでもできて道具も不要で、気分転換や心の癒しになる方法です。
災害援助に役立つはずだと考え、情報収集を始めました。

 

また、夫の退職に伴って名古屋から奈良への転居をきっかけに、夫在宅ストレス症候群(夫原病)になったらまずいとも思っていました。
そこで、夫原病予防と心身の健康を維持の両方に役立ちそうな、笑いヨガを始めました。

2020年コロナ禍になり、インターネットでオンラインサロン笑い道の笑いヨガセッションの動画を見つけました。

愛媛県の白石ご夫妻が笑いヨガを一緒にやっていました。
とても楽しく、その姿に刺激をうけました。

夫婦でできればいいなあと思ったので夫を誘ってみました。つき合ってくれたものの、恥ずかしくて窓を閉め切ってしまいました。

 

そして、私だけで2022年7月に三重県松坂市で笑いヨガリーダー養成講座を受講しました。
一緒に受講した男性は、9カ月程前に奥様を亡くされた方でした。

奥様は笑いヨガリーダーで、公園での笑いヨガに参加されていた方だったそうです。ご自身の気分転換と、奥様の活動を引き継ぐ気持ちで参加されたようです。

そんなこともあり、私は夫婦2人で笑いヨガをやりたかったのですが、夫は人前では恥ずかしくて出来ないのです。

それも無理ない事なのです。
私自身が無邪気な心で笑うということは、できませんでしたから。

もっと笑いヨガの事を知りたいと考えた頃、2022年のティーチャー養成講座を見つけました。
ちょうど参加費や交通費・諸経費分の金額がアルバイト料とほぼ同額であり、参加を即決。これぞ、笑いヨガミラクル!!

2022年の笑いヨガティーチャー養成講座

私達二人は、引っ越してからは地域に馴染みたいと思っていたので、毎朝ラジオ体操に参加させていただいていました。

 

私がティーチャー養成講座から帰ってきてすぐ、ラジオ体操の仲間の方々と体操後に笑いヨガをさせていただけるようになりました。
夫も恥ずかしがりながら参加していました。

 

夫の巻き込み大成功!

私達は、2023年2月から38日間のオセアニアクルーズに行く予定で、色々準備をしていました。

新婚旅行で行ったオーストラリアのシドニー港への入港を楽しみにしていたのです。出発20日前、船の電気系統トラブルで運行不能!

高齢者施設での看護師業務のお誘いを以前から受けていて、クルーズから戻ったら働く予定でした。

これまた笑いヨガのミラクル!!

笑いヨガを始めて、何事も前向きに考えられるようになり、9年ぶりの仕事、25年のブランクでの看護師業務の再開を決意していたのです。

クルーズ中止となった為、4月からの就業を前倒しし3月から仕事を始める事になりました。

その頃には毎朝のラジオ体操後の笑いヨガは、一部の方々の日課になっていました。
誰かが継続せねばということで、夫が笑いヨガリーダーになって引き継いでくれることになったのです。

 

夫は笑いヨガリーダー養成講座受講後、2023年6月には笑いヨガティーチャー養成講座も受講しました。私も再受講をして二人で笑いヨガが出来る準備が整いました。

2023年の笑いヨガティーチャー養成講座の一コマ

2023年のティーチャー養成講座は男性が5人。
とてもユニークなひとばかりで、講座の後も毎晩楽しくお酒を飲みながら大笑いで語り合いました。

 

夫婦で受講したのは、もちろん再度一緒に勉強したかったのもありますが、実はもうひとつ楽しみがありました。

ティーチャー養成講座が開催された富士吉田市の近くの河口湖のペンションに、講座終了後、宿泊しに行きました。
実は、22年前に家族で泊まった同じペンションです。

 

22年前と同じポーズで写真撮影

 

 

私たちは変わった、そしてとても幸せ

夫がいうには、私たち夫婦の関係は、一言でいうならば、「婦唱夫随」です。

「夫唱婦随」を書き間違えたわけではありません。
妻のいうとおりにすれば間違いない!

男性脳を持つ妻と 女性脳を持つ夫だというのです。

男は男で色々な悩みがあり、男の鎧があり、弱みをみせられないという想いもあったでしょう。

夫は、過去にしがみつく男社会から脱出しようとしました。
幸い、転居により自由に生きられる切符を手にしたようです。

 

わたしたちは、笑いヨガを一緒にできることで、とても前向きな人たちに出会えました。

また、地元のラジオ体操の会の人たちとも、笑いヨガのおかげで親密になれました。

 

ご夫妻でラジオ体操を始められた男性、笑いヨガで糖尿病の状態が改善していると言われた女性は、奈良県高市郡今井国民学校の同級生。
女性のお誕生日は3月13日。笑いヨガの誕生日と同じです。

 

奈良に来て、色々な方とのご縁が繋がり、沢山の出会いがあります。
笑いヨガがきっかけで、変化できたから、出会いをより深く喜べるのだと思っています。

 

私は明るく寛容に、そしてとても前向きになりました。
夫は自分の殻を破り、本来の姿が出てきたのかと思います。
笑いヨガでストレスが減り睡眠時間が増えた事も影響していると思っています。

 

 

これから

私たちは夫婦完結型で生きていこうと決めています。任意後見人の選任、死後事務処理契約締結などの計画をすすめました。

お墓は樹木葬の場所購入、遺体の移送~葬儀、50回忌までの法要、戒名や位牌の準備も終わりました。

私たち夫婦は、金銭等の遺産は残さず「使い切って死んでやる!」を合言葉にしています。
娘に残したいのは、財産ではなく親の生き方だけでいいと思っています。

娘が親の生き方をどのように感じ、毒にするか? 良薬にするか?
自分自身で上手く調節して、自分らしく生きれば良いと思っています。

 

今後は、地元のオレンジカフェや老人会等で、もっと地域の人たちと笑いたいと思っています。

 

2024年4月~100日間の世界1周クルーズに参加予定ですが、できればクルーズ船の中で笑いヨガを提供を出来たらと考えています。

そして今秋に、近江賀茂神社への笑いヨガ奉納に参加予定をしているのですが、橿原神宮への笑いヨガ奉納もしてみたく、ダメもとで依頼してみるつもりです。

今回は、ルナ会の機会をいただき、良い事も悪い事も含め、今までの人生の棚卸ができました。
具体的な未来の活動を2人で話し合うこともできました。

ありがとうございました。

■  ■  ■  ■  ■  ■

ここでお話は終わるところ。

ところが、ひとみさんに内緒で、康夫さんがもう1枚のスライドを準備されていました。
みんなが泣きそうになった1枚を、ご紹介させていただきます。

親愛なるひーちゃんへ
お誕生日おめでとう
貴方の支えに感謝します。いつまでも一緒に
ルナ会が終わったら、ワインで乾杯だ!

やっくんより

2 件のコメント

  • 後藤ひとみ様有難うございました。
    一緒にティーチャー養成講座を受けさせて頂いて
    笑顔が柔らかで優しい方だなぁと、思っていました。
    人生で小さい頃からご苦労され、すべての経験を
    プラスに、変えて人生を進んで来られた事、長年のすみかかを離れて。新たな場所で笑いヨガを通して夫婦で、楽しみ生き方を変え暮らしていかれる所に、本当に感動しました。
    またお会いして伺いたいです。

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