(笑い人)おかあちゃんが元気な秘訣は笑いが一番

おかあちゃんが元気な秘訣は笑いが一番

オンラインサロン笑い道のプログラムの1つとして、毎月、ルナ会(月例会)を行っています。
メンバーの一人が話題提供者となり、その話からみんなで語りあう回です。

2023年10月のルナ会話題提供者は、大阪の笑いヨガリーダー佐藤悦子さんでした。

彼女は陽気で元気な関西のおばちゃんそのものなのですが、意外にも幼少の頃は笑わない子であったというお話しやさまざまな苦労のお話が出てきて、それでもいつも笑いを味方につけて、たくましく乗り切ってこられたのだということがわかりました。

「このまま無邪気に、元気に、たくましく、笑っていきたいなあ」という言葉は、笑いの力を使いこなす達人だと思いました。

 

笑わない赤ちゃんから笑顔の私になったわけ

私は親から心配されるほどおとなしく内気な子どもでした。
蚊の鳴くような小さな声でしゃべる子で、本当に目立たない子でした。

今でこそ、明るい関西のおばちゃんキャラで、ひょうきんな性格だと思われることが多いのですが、もともとこうだったわけではありません。

 

神戸というとおしゃれなイメージですが、私が生まれ育ったのは神戸でも下町です。両親と2人の弟がいる家庭の長女として育ちました。

 

笑顔がいいねとよく言っていただけるのですが、最初にお話ししたように、子どものころは笑わない子でした。今回ルナ会でお話させていただく機会をいただき、いつそうなったかを考えてみました。

 

私は赤ちゃんの時から、笑わない子でした。
もちろん、自分の記憶にありません。未熟児で生まれ、体が弱かったからかも知れません。

母親は、あまりにも笑わない子なので、私のことを心配していました。

あるとき、近所のおにいちゃんが、目の前でビール瓶を動かしてあやしてくれたのですが、その時初めてゲラゲラと大きな声を出して笑ったのです。
母は、この子はこんなに笑うんだと大歓びして、やっと安心したそうです。それにしても、ビール瓶の動きを見て笑うなんて、今のお酒呑みがこの頃から確定したような話です。

 

子どもの頃は、自分の家庭が全てなので普通だと思っていたのですが、両親はよくケンカをしていました。

そのケンカはすごく激しいものでした。しかし、別の時にはすごく仲が良いのです。
まるでジェットコースターのような関係でした。
祖父に「おまえたちは、不幸な星のもとに生まれてきた」といわれるほど、子どもたちは家庭の中で落ち着けなかったのです。

 

小学校に入った頃は、仮面ライダー1号が始まって子どもたちに大人気でした。
その頃の夢は、仮面ライダーみたいに強くなって、父をやっつけるというものでした。

 

ままごと遊びのとき、私はお母さん役になりたくありませんでした。
お母さんはかわいそうな存在と思っていたからです。

笑わないおとなしい子であると同時に、大人とは安心して話せないような子ども時代を過ごしました。

 

それでも父が怒っていないときは、母はよく笑う人でした。関西弁でいう「ゲラ」で、大笑いしていました。
それにつられてゲラゲラと私もつられて笑っていました。だから、おとなしい子ながらもゲラゲラ筋は、子ども時代からまぁまぁ鍛えられていたと思います。

 

ネグレクトとは逆で、私の身体が弱かったことで、母は私のことをいつも心配していて、少々過保護気味でした。
私の行くところにこっそりついて来るようなことをして、年頃になった私はそれに反発したりもしましたが、私がよく笑うようになったのは、間違いなく母の影響です。

 

多分小学校5年生位だと記憶していますが、ある時、転校生が来て、その子と友だちになりました。
夏休みのある日、一緒にプールに行くことになったのですが、そのときも母親が心配して私たちをつけてきたのです。もちろん、私たちはすぐに母を見つけました。

 

その友だちは、とても愛想のいい子でした。母を見て眉間にシワを寄せていた私と違い、彼女は母親に満面の笑顔を浮かべ、挨拶をしたのです。
顔中が笑顔というか、もう本当に格別な笑顔と思わせる顔になるのです。

 

母親が「あの子はかわいいなあ。目が合うたびにニコッと笑ってほんまに可愛らしい子や」としみじみいうのです。
彼女はいつ会っても笑顔で挨拶し、母も何度もそう言うので、当時の私は「笑ったらかわいく見られる」としっかりインプットされました。

 

思えば、彼女が顔中で笑顔をつくれたから、私もすぐに友だちになれたのだと思います。

 

その友だちとは中学も同じでした。
1976年のモントリオールオリンピックで、ルーマニアのコマネチ選手が10点満点を連発し、体操部が大人気でした。私たちも二人で体操部に入りました。しかし、体操部はとても厳しく10人いた新人が、すぐに3人に減ってしまいました。

彼女はここでも先輩に「こんにちは」と満面の笑顔で挨拶します。
一緒にいる私もつられて笑顔で「こんにちは」と言っていたら、体操部はもちろん、よその部活の先輩からも、かわいがられるようになり、おかげで快適な中学生活を送ることができました。

 

「笑ったら得する」が、中学生時代には完全に自分ものとなりました。表情筋も鍛えられます。自然と笑顔が増え、笑えるようになっていったのです。

 

今から振り返ると、ニコッとしていると、助けられたことはとても多かったと思います。

 

家庭に憧れはなかったけど、結婚・出産

私は人付き合いはいい方ですが、お年頃になっても、結婚に憧れることはありませんでした。
しかし、そんな私にも婚期が訪れました。

 

結婚してからも、家には寝に帰るところと思っていたようなところがあります。
温かい家庭を作りたいけど、どうするかは、よくわかっていなかったのです。離婚しなかったのが不思議なほどですが、これはもう、夫の忍耐力のたまものです。私は偉そうに言っても、夫の力で今日まで家庭が維持できたのだということは、よくわかっています。

 

特に子どもが欲しいとは思わなかったのですが、30過ぎてからは、このまま子どものいない人生を選択するというはっきりした意志も持っているわけではなく、周りの影響もあり、なんとなく「子どもが欲しいね」と言ったのです。夫から「犬の子じゃないので、途中で人にあげられへんで」と言われました。夫からそんな風に思われていた!?と驚きましたが、子宝に恵まれることになりました。

 

友だちに妊娠を報告したときも、「松田聖子の結婚より想像できない!」と言われました。それほど、私が子どもを持つということは、周りの人を驚かすことだったようです。

 

私自身はというと、おなかに子どもがいるときから、イベント感覚でした。

みんなの期待を裏切って!?生まれてきてくれた子どもをすごくかわいく感じ、母性が生まれたのか、自然に嬉しさとかわいさでいっぱいでした。

しかし、子育ては簡単ではなく、うまくいくことばかりではありませんでした。

 

正直、重たかったです。

 

ダメだとわかっていても、他の人と比べてしまいます。
自分はいいお母さんになりたいけど、いいお母さんになれていないというジレンマがありました。

 

それでも、子どもはすごくかわいいのです。かわいくて、かわいくて、愛おしくて仕方ありませんでした。

そして「この子に弟をあげたい」と思ったのです。

 

人生一番の大波が来た

私は浮き沈みの激しい人生というか、波乱万丈な体質なのかも知れません。周囲の人から「あんたは、人生のサーファーやなあ」と言われたこともあります。

 

そして、私のサーフィン人生の最大の波が、2番目の子である息子を産んだときにやってきました。

 

息子を生むときも、出産はイベントだと思っていたので自宅出産すると決めていました。生まれた瞬間、助産師から「朝になったらすぐ病院に連れていってください」と言われたのです。

 

息子が先に連れていかれ、私は後で病院に行き、二人とも入院になりました。

 

漫画でよくあるように、縦にザザザーと線が引かれ、真っ青になるシーンが表現がありますが、あの通りになりました。そのとき、ザザザーと血の気が引き、漫画のように下がっていくのがわかりました。

 

盆と正月と一緒に来たというのは普通はいいことに使われますが、盆と正月の大騒動が悪いバージョンが来たように感じました。

 

息子はダウン症ですと言われたのです。

 

この子と一緒に死のうかとも思うほど、地の底に突き落とされました。
こんなに人は泣けるのかというほど、泣きました。

 

そんな中でもよかったのは、自宅出産だったので終始母子同室だったことです。
息子は病院で生まれていないので、新生児室に入れてもらえないのです。

 

お風呂のときは、看護師さんがみてくれるのですが、その他はずっと私と同じ部屋にいることができたのです。

 

だから、泣いてはいるものの、ずっと抱っこしたり、母乳をあげたりしていられたのです。

 

赤ちゃんはほとんど寝ていますが、あるときパチっと目を開け、私と目が合いました。
新生児ですから、まだ目は見えていないはずです。でもそのとき、ちゃんと私の目を見てくれたと感じたのです。

 

「なんてきれいな目なんだろう」と思いました。

 

一瞬で恋に落ちました。

娘があまりにもかわいかったので、下の子もかわいいと思えるだろうか心配していたのですが、この一瞬でそんな心配は吹き飛び、大好きになったのです。

 

息子を抱き上げると、息子が喜んでいるのを感じ取れるのです。

 

これで、自分の人生変わってきたと感じられたのです。

 

 

強いおかあちゃんになる

息子が生まれ、弱いお母ちゃんやったらあかん、前に出ていく人、強いお母ちゃんにならないといけないと思いました。

妊娠中におやこ劇場に入会していました。
親子で舞台芸術を鑑賞し、他の親子と交流を深めることで、子どもたちの感性を豊かに育てようという趣旨の団体です。

 

息子が生まれて、出ていかないといけないという気持ちが強かったので、この子を抱いていろんなところに行ってみようと思いました。

 

自主運営グループですので、役員をやったり、運営を担ったりするようになりました。

そこで出会ったのは、私のイメージの「おかあさん」とは全く違う人たちでした。すごくパワフルな人ばかり集まっていたのです。

 

自分がずっと思っていた「おかあさんは、かわいそうな存在」とは、遠くかけ離れていました。
自分たちで何でもやれるのです。

お母さんのイメージが変わっただけではなく、息子を一緒に育ててもらいました。

2人の子どもたちは、いろんな人によってたかって育ててもらえたことで、育ちの環境としては、とても豊かなものになりました。

 

しかし、いいことばかりではありません。業務の担当しすぎて、忙しくなってしまいました。
仕事もしていましたので、疲れて疲弊し、1週間でいいから一人でゆっくりしたいという気持ちが芽生えたこともありました。自分の調整能力の問題ではなるのですが、ストレスでいっぱいでした。

 

そんなとき、乳がんがわかり、文字通り「ガーン」です。

 

乳がんだと診断を受けたのに、なぜか「何なんやろ、それ?」と思って母に相談しました。
ところが、当時母は弟の家庭の問題に巻き込まれていて、それどころではなかったのです。

 

その頃、おやこ劇場で知り合った友人が、大腸がんで抗がん剤治療に入っていました。彼女は「さっさと行ってさっさと切ってくるわ」と明るいものでした。当時は入院して抗がん剤治療をやるのが普通でしたが、彼女は自宅にいながらの治療でした。

 

そして、バーベキューに抗がん剤を点滴しながら顔を出したりしていたのです。

 

私は乳がんになったというだけで落ち込んでいたのに、彼女はがんはそんなたいしたことじゃないようにふるまうのです。彼女といると、私の感じ方も変わってきました。

 

思考が変われば、気分が変わるのですね。

 

最初、落ち込み過ぎたのだと思いますが、翌年は大腸がんにもなったのです。
それもあっさり乗り越えることができました。片方の胸を取ることになりましたが、思ったより落ち込まなかったのです。

 

こうやって、周りの逞しいおかあちゃんたちのおかげて、がんも乗り越えられました。

 

乳がんになったとき、友だちが心配してくれて「ナチュラルキラー細胞療法というのがあるから、切らなくてもいいかも」と言ってくれました。免疫療法のことだと思います。調べてみたらとても高額で、私には現実的ではかったので、予定通り手術を受けたのです。
しかし、ナチュラルキラー細胞について調べたら、笑いが関係するということがわかったのです。
それが、後に笑いヨガにつながりました。

 

笑いヨガとの出会い

笑いは、がん細胞を攻撃するナチュラルキラー(NK)細胞を増やし、強化するのだそうです。

ボランティアの関係で、笑いヨガをしている人に知りあったとき、「あ!ナチュラルキラー細胞や!!この人は、私のために現れてくれた」と思ったのです。

 

その人に、弟子にしてくれとお願いしました。

 

彼女は笑いクラブ(定期的に集まって笑いヨガをするサークル)をやっていて、そこに誘ってくれたのですが、残念ながら私は仕事をしていたので、そこに参加することはできませんでした。でも、気にかけてくださり、高齢者施設を回るときにお誘いいただき、同行させてくれたりしました。

 

自分でも笑いクラブをやってみたいと話したところ、笑いヨガリーダー養成講座を紹介してもらいました。
「えっちゃんは笑顔がいいから、ぜったい笑いヨガは向いているよ」と背中を押してくれたのです。

 

日本笑いヨガ協会の高田佳子さんの笑いヨガリーダー養成講座が大阪でも定期的に開催されていて、2015年8月に笑いヨガリーダーとなったのです。

2015年8月の笑いヨガリーダー養成講座

 

コロナ禍前だったので、大阪はたくさん笑いクラブがあり、でかけて行っては笑っていました。

笑いヨガをやっていると、いろんな人と知り合います。笑いクラブで出会った皆さんから元気をもらっていたのです。

 

だから、乳がんはあったのですが、他は全部元気なので、笑いヨガをやって大きな体の変化は感じませんでした。

 

しかし、知り合った末期がんの高齢女性の患者さんは、「笑いヨガをやったらごはんが食べられる」という話をしてくれました。
余命数か月でしたが、長く生きられました。笑いヨガすると、調子が良いと言う人たちが大勢いて、笑いヨガを通じて人生の教えのようなものをいただいていました。

 

そうした方々と、コロナ前には、笑いクラブで一緒に笑っていたのです。

 

笑いクラブだけではなく、依頼を受けて地域のいろいろな集まりで、笑いヨガをやらせていただいていました。

 

コロナが5類に移行したとはいえ、笑いクラブを再開するきっかけが見つけられずにいます。

 

これまでいろいろなことをやっても、すぐやめてしまうところもあったけど、考えてみたら笑いヨガは長く続いていているのです。

 

自分ががんになったことで始めた笑いヨガですが、自分には向いているのかなあと思った矢先、2023年8月大阪で3年半ぶりにの笑いヨガリーダー養成講座が開催され、私は再受講をしたのです。

 

やっぱり笑いヨガや!

2023年8月の3回目の私にとっての笑いヨガリーダー養成講座は、とても印象深い時間になりました。

 

3回目といっても、集まって笑うのは久しぶりです。みんなで笑うことの幸せと楽しさを体感しました。

2日目のことです。自分がリードしているときだったのですが、笑っていると、邪気が払われていると感じました。
邪気が払われると、無邪気になる自分を感じます。神聖という言葉もちょっと違うような気がしますが、とても喜ばしく、楽しくて楽しくて仕方がないのです。そんな、今まで味わったことがないような、何か特別な時間でした。

 

「笑いヨガは、お祓いだ!」という体感をしたのです。

 

最初の2回の笑いヨガリーダー養成講座は、参加者が多く、たくさんの人でワーッと笑ってものすごく盛り上がり、他の受講者からもらい笑いのエネルギーを感じ、楽に笑えました。
それはそれで楽しかったのですが、ノリよくみんなで笑って終了したらさようならで終わっていました。
しかし、3回目は人数は少なかったけど、その分、一人一人の人とお話がしやすく、とても濃い集まりでした。

 

ある高齢男性は事業で成功され、子どもたちにその事業は譲られているのですが、「おかあちゃんの頼みではじめた仕事だけど、仕事も家庭もうまくいったのは全部おかあちゃんのおかげ、感謝してる」と話してくれました。

懇親会もじっくりお話ししながら盛り上がりました

もう一人の参加者が、「お母ちゃんを元気にする笑いヨガをしたい」という話をされました。
どうしてそうしたいのかを休憩中に話してくれました。

私は障害児を育てるにあたり、
「お母ちゃんが元気じゃなかったら、子どもは元気ちゃうねん。お母ちゃんが幸せじゃなかったら、子どもも幸せちゃうねん」
という話を聞かされそれを意識してきたけれど、その言葉が改めて懐かしく蘇ってきました。

 

そして、講座の最中にある若い女性参加者に「おかあさんが乳がんになった」という情報が飛び込んできました。そのお母さんは、私と同い年だそうです。

 

私も乳がん経験者ですから、その方と少しお話しをしました。すると「まるであなたは私みたい」と思ったのです。二人で話をして、こんなにリンクすることがあるのかと思うほど、二人で泣きました。

 

とても深いメッセージをいただいたと思いました。笑いヨガが引き寄せるご縁はいつだって格別です。

 

 

「笑いヨガは、もう外せない!」という気持ちになり、それからは、毎日笑える、笑おうという生活に変わりました。
すぐに笑いクラブはできませんが、毎朝、高田佳子さんの朝の笑トレに参加しています。

 

振り返ってみると、お母さんの話をいろいろ聞かされてきました。

笑いヨガでも、お母さんの話がいろいろ出てきました。

 

2日間の笑いヨガリーダー養成講座を終えて、帰り道で、私、おかあさんになれて良かったなあと思ったのです。

そして、私、ついているよねって思ったのです。

 

やっぱり笑顔って大事だなあと思ったのです。

 

今日のルナ会で、話題提供者を担当してと言われて振り返ってみたら、人生の要所要所で必ずいい人に出会っているのです。

だから、このまま無邪気に、元気に、たくましく、笑っていきたいなあと思っています。
だから、笑いヨガをやっていきます。

皆さん、今日はありがとうございました。

 

 

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