(笑い人)命はつながる

2021年10月のオンラインサロン笑い道の月例会(ルナ会)では、2017年の第8回全国笑いヨガ大会の大会長としても活躍いただいた麓美穂子さんは、助産師を長年務められていました。麓さん自身のお話を交えながら、助産師視点からの日本の家族についてお話しいただきました。

助産師になったわけ

 私は現在、山梨県富士吉田市に住んでいます。
母は、助産師でした。母は、自分の父親から手に職をつけるよう言われて育ったそうです。当時は、女性が手に職と言っても美容師か産婆になるしか選択肢はありませんでしたので、お産婆さんになり、地元で開業していました。

長男以外は外に出ていく、ご飯が食べられたらいいというような時代でした。縁談があったのは、先に満蒙開拓移民として中国に渡り、医者を開業していた父でした。

だから、私は満州で生まれたのです。
終戦となり、弟は引き上げ船の中で生まれそうになるところ、なんとか日本にたどり着いて生まれました。

富士吉田に帰りましたが、父は負けるはずがないと信じていた日本の敗戦で、ふぬけのようになってしまいました。母がお産婆さんとして働き、さらに弟2人を生みました。

そんな状態でしたが、どこの家にも子どもは5~6人いました。長女の私は、おさんどんをしながら弟の世話をしていました。遊びに行くのも小さい弟をおぶっていくわけですが、どこの家も同じようなものでした。

私が助産師になったのは、母の働く姿を見ていたという影響はあります。

それより、女は私一人で弟が3人ですので、「あんたの教育に金はかけられない」と言われたり、教育を付けると、働いて母と同じように苦労が多い生活が待っているとも言われたりしたのですが、やっぱり勉強をしたいという想いが強かったのです。

私の地域では、当時は高校には3分の1しか行かなかったのですが、高校に行かせてもらいました。

18歳で外に出たい想いが強く、今の千葉大学付属の看護学校に行きました。
それから、当時全寮制だった日赤の助産師学校に行ったのは、学費が安く存分に学べる環境があったからです。

こうして助産師の道を選びましたが、母が助産師だったというだけではなく、さまざまな環境が、この道を進ませたのだと思います。

 

2つの命を預かる仕事-環境は変化し続けている

 日本の高度成長期の真っただ中で、助産師としての教育を受け、働いてきたわけですが、ちょうど東京オリンピックの年に助産師学校を卒業しました。

 お茶の水女子大の家永先生が「日本の家族制度は強制的に終わらされた」と語っていました。

 「家」から、「個人」に焦点が当たる時代になったということです。

家のために誰かが犠牲になるのではなく、一人一人がみんな大事なのです。

それが、今の制度に進んできたのだと思います。

高度成長を目指し、皆が同じ方向を向いて合理的に動く時代から、個人が個人として、大切にされ、自分を全うできるような制度に変わったのです。

いろいろなことが変化する時代でした。

出産も、お産婆さんがどこの地域にも5-6人いて助産所がたくさんあった時代から、病院で子どもを産む時代になりました。

出産というのは、2つの命を預かる仕事なのです。

昭和から平成になる頃には、もし2つのうちの一人の命に何かあれば、補償金は1億円になりました。助産師はもとより、小さい医院ではとてもその保証をすることはできません。医師会の動きもあり、たとえば私が今住んでいる富士吉田市などではお産は日赤と市民病院しかできなくなってしまったのです。

個人的な事情になりますが、夫が亡くなり母の要望で山梨県富士吉田に戻ってきました。

最初は、母の後を引き継ぐ形で提携していた病院で助産師として働いていました。夜も昼もなく、ハードな仕事でしたので、小さなクリニックでお産を取り扱わなくなって、ホッとしたのも本音です。

その後、私は地元の看護学校の教員になりました。しかし、今は大学の看護学部が一般的になり、その学校も閉校になりました。

出産数は減っていますが、どこで子どもを産むのか早く決めておかないと、予約が取れず、地元で出産できないというような状況が起きています。

出生数も1970年代初頭の第2次ベビーブームをピークに、減少の一途をたどっていますがこうした事情も関係していると思います。

同級生・同僚だった助産師たちも、今では精神科や他の科で看護師として働いたり、私のように老人ホームで看護師として働く人も多いです。

 

笑いヨガに出会った

学校が閉校になったので、特別養護老人ホーム(老人保健施設?)で看護職として働くようになりました。そこで、安全に食べられるように口腔機能をしっかりつける体操をします。「パタカラ」体操をやっていました。これは、大切なものではあるのですが、来る日も来る日もパタカラです。

介護職だけではなく、看護師もやることになっていました。口腔嚥下はとても大切なのです。

しかし利用者さんたちが楽しんでいる様子もなく、「これでいいのかな?」と疑問に感じ、インターネットで検索しているうちに、日本笑いヨガ協会の講座を見つけました。

2015年、2日間の笑いヨガリーダー養成講座、5日間の笑いヨガティーチャー養成講座を受講し、今に至っています。

 

 実は助産師になりたての頃、十分な経験を積む前に「母親学級」を担当させられたり、ロシアの無痛分娩法の講師をしたりしていました。有名な「ヒッヒッフー」というラマーズ法です。

笑いヨガを学んで、改めて呼吸法の大切さがわかりました。あのとき、知っていたらと思うのは、痛みを笑うという呼吸を使えばよかったことです。

吐くことの重要さはわかっていました。

笑って呼吸をすることでお腹が動くので、今の職場での高齢者の便秘解消に役立っていますが、出産にも使えただろうと思います。

もちろん、出産のたいへんさだけではなく、さまざまなトラブルにも遭遇しました。

出産というのは、夫婦にとって一生の問題になったり、後々迄ずっと続く問題になる可能性があるものです。

当時は熱心で真面目なあまり、四角四面に考えすぎ、医者と衝突したこともたくさんありました。特に、私が働いていたエリアは大使館が多く、外国人も多かったのです。彼らの出産にはいろいろな問題がありました。
同国出身のカップルだとどうということがない問題も、国際間の“違い”で、とてもたいへんになったこともありました。

 

将来のこと

 私自身は子どもがいません。

まあ、仕事が大変だったから、手がかかる子どもだったら困ったかも知れません。

母は、若いうちはいいけど老後を考えたら子どもは必要だという考えがあり、里子の話もありましたが、夫はいなかったらいなくてもいいという考えだったので、結局子どもを育てる経験はしていません。

今は、子どもは2人位の家庭が多く、一人産んだら、もういいという人も多いです。一人より、二人がいいと思っても、お金がかかるという現実の中で、難しいと考える人も多くなってきました。

昔は、田舎だと各学年に一族で一人はいるというのが普通でした。そして意思決定も、本人だけで決めるのではなく、皆で決めたり、あるいは大家(本家)が決めるということが多かったです。

だんだんと少子化になり、今は後継者がいない家もあります。昔と違って、自分の家のことは、自分で守るという風潮になってきました。

家永さんが戦後頃から家制度は終わったと言っていますが、それが極限まで来ていて、逆行してきていることもあるかもしれません。

みんなで助け合って生きるという考え方が出てきています。

「家」という考え方はなくなっているので、これでいいのでしょう。

今は、過去に回帰している部分もあるのかと思います。

たとえば、脱炭素社会ということが言われています。

ものは大切に使い、生命を使いきりましょうということが、推奨されているのです。

老人を家で看取るといった家族制度の復活に近いことに、注目が集まりつつあります。昔の家族制度も合理的な部分がたくさんあったのかも知れません。

どんなことがあっても、何が最適なのかは本人しか判断できないのです。

一人一人の想いもあるし、子どもの頃の育ち方もあります。遊びの環境も、大きく影響していると思います。

私は夫を亡くし、子どもはいませんが弟とその嫁は近くにいます。

母は、仕事人間だったので、弟たちは私が育てたようなもので、それでいて一緒に遊んで一緒に育ってきたのです。

弟の嫁は、遠縁ということもあり、昔からよく知っていて気心知れている関係ではありますが、家族ではありますが、はやり適度な距離間を置きながら、気遣いあう関係であるのが理想だと思います。

弟の嫁たちも、弟の愚痴を私に言います。

そういう関係だから、自分の最期はそんなに心配していません。

人を煩わせることなく、あの世に行くのが一番良いと思っています。

しかし、最近ではあまりすぐに「バタン、はい、おしまい」では看取った満足もないでしょう。少しは余が残る最後がいいと思います。

だからといって、1-2か月と寝込むと周りの人の負担が大きくなるので、程よくみんなとお別れできる日数がいいなと思うようになりました。

そのためには、鍛えておかないと!

だから、笑いヨガを続けて筋肉も一緒に鍛えます。

 

これから

 笑いヨガを始めた頃、これはいいものだと皆さんに勧めていました。

そのときは仕事もあり、地域で順調に広められませんでした。今頃になって、ようやく講師依頼や継続する教室の依頼が来るようになりました。

今は勤務も週2日です。できるだけご要望にお応えし、笑いヨガを提供したいと考えています。

1 個のコメント

  • 麓さんのルナ会を楽しみにしていたのですが、当日こども館の行事と重なってしまい参加できませんでした。お話の内容が公開されるのを楽しみにしていました。底抜けに明るく屈託ない笑いはたくさんの人生経験からわき出てくるのですね。たくさんの命の生まれを手助けしてきたことは、何よりの心の勲章ですね。命を精一杯輝かしている麓さんに乾杯!!

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