オンラインサロン笑い道では、毎月メンバーのお話をじっくり聞く会を開催しています。
2022年7月は、福島県会津地方にお住まいの小林チエ子さんのお話を伺いました。
静かな語り口から、ポンポン名言が飛び出しました。
笑いヨガを始めたきっかけ
私は新しいことをするのが好きです。
フラワーアレンジメントや卓球、ヨガ、3B体操をやりましたが、どれも長続きしていません。
あるとき新聞か雑誌で笑いヨガを見つけました。
笑いヨガというネーミングに惹かれ気になっていたところ、2019年地元での高田佳子さんの講演があり、参加した際のアンケートに「会津で笑いヨガリーダー養成講座を開催してほしい」と書きました。
ほどなく、喜多方などで活動されているティーチャーの綾田多美子さんと日本笑いヨガ協会の共催の笑いヨガリーダー養成講座が開催され、受講しました。
そのとき、笑いヨガティーチャー養成講座の案内があり、すぐに参加は決めました。
金額や5日間という日程のこともあり、さすがに夫に相談が必要でしたが、自分の中で決めていたので、なんとか了解を得て参加しました。
受講の翌月10月から月に1回サロンでやることにして張り切っていたのですが、笑いヨガの計画だけではなく、いろいろなことが、コロナ禍がはじまり止まってしまいました。
ティーチャー養成講座でFacebookの使い方を学びました。その時は、これがその後こんなに役に立つとは思っていませんでした。
Facebookを使えるようになっていたので、コロナ禍の中、Facebookの高田佳子ページで毎朝笑いヨガをして、さらに全国の仲間とZoomで繋がって笑いヨガができたのです。
毎朝30分はやったでしょうか。
これで、体の動きがシャープになったような気がします。
気持ちにも余裕ができてきたように思っています。
決めれば進む
誰かが「75歳から80歳が人生の円熟期」と言っていたことが、記憶にあります。
私は今年の3月で後期高齢者になりました。
いよいよ私も円熟期に入ります。
この円熟期に何をしようかと考えてみて、「会津に笑いヨガを広めよう」と思いました。
今だと始めてもよいかなと思えたのです。
このルナ会は、前に話した人からバトンが渡されます。
福岡の柳本さんからバトンが来て最初は人前で話すのは苦手なのでお断りしたいと思ったのですが、やってみることにしました。
こうして、お話を受けたとたん1ヶ月以内にいろんなことがとんとん拍子に進みました。
友人から連絡がきて、隣市のサロンに笑いヨガリーダーとして登録しました。
新しく笑いクラブを住んでいる町に立ち上げ、7月14日に第1回『こばちー笑いクラブ』を開催できました。
始めの一歩は4人でしたが、とても勉強になりました。
毎月コツコツとやっていきます。
私の円熟期の5年間は、笑いヨガで充実したものになりそうです。
子どもの頃のこと
私は長女です。妹2人、9歳離れた弟がいます。
両親は同級生で20歳で結婚し、父の祖父母と同居でした。
父は小学四年生から祖父母に育てられました。
父は結婚したとき母に「心の貧乏はしないように」と言ったそうで、それを私は大人になってから聞きました。
母と姑の争いは見たことありません。お互いにいたわり明るい家庭でした。
当時は、雪の重みでの停電が時々あり、電気が消えてしまうこともありました。
そんなとき、みんなで囲炉裏を囲んで昔話を聞かせてもらい、そんな日でも楽しかったのです。
父が酔っ払って帰ってきたときは、子どもがおねだりをします。そうしたらお菓子を買うお金をくれました。
小学6年生の時、私の家で近所の子どもが集まりクリスマス会をすることになりましたが、私は準備に参加できませんでした。
下級生たちがつくったクリスマスツリーが気に入らなくて、やり直そうとはさみで切ろうとしました。
「みんなで作ったものを壊すのはダメだ」と母から言われたことが、強く心に残っています。
みんな仲良く穏やかに暮らしていましたが、そのころ私は母に激しく反抗していました。
そんな中、中1のとき、伯母にもらった雑誌にあった言葉にとても衝撃を受けました。
人を変えることはできない。
自分が変わることで、人の心が変わっていく
涙を流し、それから自分が変わったように思います。
この言葉を時に触れ、思い出しています。
結婚そして園芸
高校を卒業し、商工会議所に3年間勤めました。
井の中の蛙になったらいけないと考え、東京に出て2年間働いたところで母が病気になり、実家に帰り1年間母に代わって畑をやりました。
それが結婚した後に役立ちました。
25歳で結婚しました。夫の両親と祖母と同居でした。
嫁としていじめらたとか家族仲が悪いといったことはなく、育った家と同様、穏やかで明るい家庭でした。
35歳の時、夫の両親が続けて病気で亡くなりました。
私たち夫婦とそして夫の祖母、幼い子ども3人が残されました。
私も働いていましたので、子どもたちは保育園に行きましたが、当時としては珍しく、夫が送迎を担当してくれました。
当時の保育園は夏休みがあったのですが、祖母が子どもたちの面倒をみてくれ、なんとか乗り切れました。
畑は私、田んぼは夫と分担していました。
母が好きで育てていた花も引き継ぎました。
最初は2坪位から、徐々に大きくなっていき、家畜小屋を壊してからは、そのスペースでも花づくりをはじめ、今はかなりの規模になりました。
最初は季節が少し遅くなったものを安く買って植えていました。
友人に苗をもらったりもしました。
孫が生まれたときに君子蘭を種から育てたのが今では30鉢位になりました。
途中、熱心ではないときもありましたが、この花づくりだけは続けられました。
長続きしないと思ってる私がそれでも続けられたのは、道路から人がみて「きれいだね」と声をかけてくれることが、励みになっているからかもしれません。
今できることは何か
50歳になり、会社を辞めました。
家の建て替えなどもしなければと思っていたのですが、夫はそんなこと気にしなくてもいいといいます。
自閉症児の療育をするという友人がいたので、ボランティアとして手伝うことにしました。
子どもとスキーやキャンプに行ったり、保護者と『夢だより』という広報誌を作ったり、とても楽しかったのです。
しかし、保育のことを何も知らずにかかわっていたので、このままでいいのかと考えるようになりました。
今できることは何か、
今しかできないことは何だろうか、
考えてみました。
今しかできないことと言ったら、大学に行くことだと思い、短大に社会人入学しました。
53歳で入学し、55歳で卒業です。
ちょうど卒業した年の5月末、実家の父に癌が見つかりました。
末期癌だったので3ヶ月の闘病入退院のあと、父の希望で退院し 最後の10日間は自宅で看病しました。
父は自分の死を私に予告しました。
「後2、3日だな」と。
私が知らばくれて「何が?」と聞くと「俺が死ぬのが」と。
そんなやり取りをしながらも、とても大切な時間を過ごしました。
その後、放送大学でさらに勉強を続けました。
59歳で最初にボランティアでかかわったところから、保育士として手伝ってくれないかというお話をいただき、65歳迄働きました。
ちょうど震災があった年、それまで10年間一人暮らしをしていた母の認知症が進み、独居が難しくなったので弟の住む近くのサービス付き高齢者住宅に住むことになりました。
実家が空っぽになってしまいました。
でも、畑も田んぼもあります。
田んぼは、親せきがやってくれることになりました。
畑はお参りなどで家に帰ってきたとき、他人がやっていたら母が悲しむだろうと思って、誰にも貸さずに自分でやることに決めました。
最初の1年は、勤めながら通っていたので、ジャガイモ位しかできませんでした。
それも、いつものようにやったら、うまくできなかったのです。気候も土も違ったのです。
翌年から、東京に住む娘の子育てを手伝うことになりました。
東京に2か月に10日間、実家に月に2~3回通う生活が始まりました。
家が3つあるような生活が8年間続きました。
東京はそろそろ手を放そうかと思っていたところ、コロナ禍が始まりました。
少し余裕ができたら、花に目が行きました。
いかにかまっていなかったかが目につきました。
いろいろな花が咲いているのですが、あまり手をかけていなかった花たちを整えることに、今は熱が入っています。
「まっ、いいか!なんとかなる!!」
こんな暮らしの中で、「まっ、いいか!なんとかなる!!」という生き方をしてきたことに気が付きました。
悪く言えばいいかげんになるのでしょうがよく言えば、割り切った考え方をしてきました。
娘に言わせると、私は子育て中から「まっ、いいか!なんとかなる!!」とよく言っていたらしいのです。
だから彼女も、「まっ、いいか!なんとかなる!!」でやってきたというのです。
そんな私でも、こだわることもあります。
たとえば、夏はキュウリやトマトは毎日食べますが、冬には食べません。
冬は白菜、大根といった白いものが多いのです。
その話をしたら、娘は会津にいた頃は風邪をひくことはなかったけれど、東京に住むようになってからは、風邪をひくようになったというのです。
自分の健康は自分で守る
私の健康法は、自分の健康は自分で守るということです。
自分のことは、自分が一番よく知っているはずだと思います。
気にしない、でも医者には行き、診断はしてもらうけど薬は飲みません。
コレステロールが高かったのですが、食べるものをいろいろ変えているうちに、コレステロールは下がりました。
腎臓の値も悪かったことがあるのですが、保健師さんと相談して教えてもらいながら食べ物で調整しているうちに、正常値に戻りました。
保健師さんからは「小林さんは自分で自分の体を治すんだものね」と言われましたが、自分の体なのだから、自分で何とかしたいと思っていて、今のところ薬は使っていません。
そして、中学校は片道8キロの距離を歩いて通いました。そのころ、今の丈夫な体が作られたのだと思います。
矜持
母から学んだことの中に、「分け隔てなく人と接する」というものがあります。
とても有名な方がうちに来られた時も特別ではなく、誰にでも同じように接する人でした。
誰にでも、「ごはん食べてきたかよう」と声をかける人でした。
あともう1つ、私が子どもを育てるときに気を付けてきたのは、「子どもも大人も一人の人間だ」というのがあります。
手伝いと叱ることは、母が反面教師でした。
自分が子どもだった時、嫌だったこと事を思い出して子どもの気持ちを想像してました。
ですから、子どもには幼いときから、一個人として接して来ました。
手伝いを頼んだ時、嫌だと言われたら「今度手伝って」
私が子どもを叱っていると夫と祖母もあわせて叱るので、二人の前ではなるべく叱らないように。
すると3回に1回は手伝いをしてくれるように。
子どもたちは、叱られると本当に悪いことなんだと思ったそうです。
私は私でしか生きられないと思っています。
川の流れのように、自然に寄り添いながら、これからも人生歩み続けたいと思っております。
最後に、このルナ会でバトンを渡してくれた柳本さん、オンラインサロン笑い道の皆さん、そして私を放っておいてくれる夫に感謝して終わりたいと思います。
ありがとうございました。
終わりに
素朴な語り口ですが、印象に残る言葉の数々。
普段は物静かなのにとてもパワフル。
花好きで、Facebookにはご自分が育てたすばらしい花の写真や会津地方の風景を投稿されていますが、なぜその花があるのか。
花づくりや野菜づくりの体力は、どこから来ているのか。
たった30分のお話から、小林チエ子さんらしさが何から生まれたのかが良くわかり、心に沁みわたるお話に感激しました。
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