自分を表現し、好きなことをして毎日を過ごすことはとても大事です。
笑いヨガは、無邪気さを引き出すツールです。
徳島在住の笑いヨガティーチャー清水素子さん。歌が苦手だったのに、還暦を機にオペラに挑戦されました。
1.子ども時代、高校・大学
今でこそ、笑いヨガで人前でお話したり、教えたりすることは普通にできていますが、小さい頃は人前で話しをしない無口な子どもでした。
生まれた愛媛の実家は大家族で、私はその一番下でした。何もさせてもらえない部分もありましたが、とても可愛がられ、要求はなんでも通りました。だから、わがままをいったり自己主張をする必要がなかったのです。
両親は祖父が始めた工場で朝早くから働き、夜はとても早く寝てしまうような家庭でした。父は寡黙で働き者、母も物静かでたいへん忍耐強い人です。
小学校に入ると、ますます人と話をするのが苦手になりました。どうしても話さないといけないときは、汗をかいて真っ赤になってしまうほどでした。勉強は得意な方でしたが、できすぎ君の兄ほど出来が良いわけではありません。おとなしく目立たない子でしたが、何でも与えられていました。
欲しいものは何でも手に入ると思っているのですが、この頃の経験で欲しいものを手に入れることに対してブロックが無いのかもしれません。
子どもの頃の夢は、「大きくなったらよしもとに入って新喜劇の女優になりたい!!」でした。ある時親に言ったたら、「あほか!おまえは」とものすごくしかられました。
「それってそんなに悪いこと?」と思うほどのしかられようでしたが、しかし、そうなるとますますよしもとに憧れました。
芸事が得意だったわけではありません。勉強に比べて、体育・図工・音楽が苦手でした。特に、歌が下手で、あるとき先生からボロクソに言われました。
それがショックで「歌は絶対歌わない」と決めたほどです。
45才位までは、カラオケに行ってもみんなを盛り上げるばかりで自分は一切人前では歌いませんでした。
中学校では卓球部に入り、朝練も含めがんばりました。相変わらず勉強は得意でしたが、高校は進学校で、そこで初めて中学校迄とは違う勉強面での厳しさに触れ、やる気が出なくなってしまいました。
「とりあえず!」のような選択肢で、薬学部に進みました。そこで、自分ではおとなっぽいと思い込んでいましたが、半分位が浪人生で自分が勘違いしていたことを思い知らされます。
生真面目な田舎の女子はいろいろな意味でカルチャーショックを受けました。お酒や恋愛、いろいろ失敗しながらも、大学生活を満喫しました。この頃も、やっぱり人前で表現するということは、得意ではありませんでした。
2.結婚の衝撃!
薬学部を卒業し、就職で徳島に住むようになりました。
研究室勤務でしたが、そこでの当時の新人女子の仕事は、薬剤師といえどもお茶くみ、コピー、データ入力でした。
これが一生続くのかと思っていたところ、今の夫の存在が現れました。
しかし、結婚に至るのは、両方の親の存在が大きかったのです。
しかし、母の生まれた時代背景もあったのか、私の結婚に最初反対したのです。実は、私の夫は台湾人2世です。
母自身も、いきなり自分でもどこから湧いてきたかわからないような気持ちが生まれ、自分でもビックリしたようです。
それまで叱られたり反対されたことがなかったその母が大反対したことに驚きました。
しかし、反対されると猛然と反骨精神が湧いてきて、結婚の決意が固まったようなものです(笑)
そしてご心配なく。結婚してからはうちの旦那さんと母はとっても仲良しで信頼しあっています。
もっとすごいのは、義父でした。
彼は末息子が嫁候補を連れてきた際に、「絶対に離すな!結婚しろ」となぜか硬い決意。台湾から渡って一代でいろいろな事業を起こした人です。
すごい情熱を末息子の結婚に燃やし、結婚披露宴会場を自分で予約してしまいました。
それはそれは見たこともないような大宴会でした。私は山口百恵じゃないんだから!と思うような結婚披露宴になりました。
親族や会社関係等の通常、結婚式にお招きする人は4分の1程度で、あと4分の3は華僑の方々です。知らない人たちが円卓を囲み、新郎新婦に関係なく盛り上がる大宴会でした。費用は全額義父が出してくれました。
驚きの連続でしたが、家族みんなに祝福されての結婚式はとても嬉しいものです。
ケーキカットならぬ、桃カットでした。
大きな桃の饅頭を割ったら、中から小さな饅頭がたくさん出てくるのです。義姉2人がつくってくれました。華僑の方々も、実物を見るのは初めてだった人も多く、大騒ぎです。
知らない人を含め、とてもたくさんの人に祝福されたありがたい結婚式でした。
新婚旅行も、全て義父の手配です。私の両親や兄姉家族、そして夫の家族皆で台湾に行きました。現地ではマイクロバスを借りての観光地巡りと各地で披露宴でした。これまた1週間続きました。
予期もしなかったことが多い結婚でしたが、私の人生「気づいたらそうなっていた」が多いのです。
3.娘の病気
仕事は続けていましたが、出産を機に仕事を辞めました。
育児本を観ながら、神経質に育てようとしていたと思います。
その娘が10才のときに、頭が痛いと言い出しました。目が赤くはれ角膜炎のようになり、痛がるのです。痛み止めを連続で飲ませるわけにはいかず、大学病院で精密検査をしてもらったところ、自己免疫疾患でした。
ステロイドしか効きません。娘は1日中頭が痛く、ステロイドを結構な量投与されることになりました。
医師から「一生ステロイドはやめられない」と言われ、そんなわけはないだろうと考え、薬剤師でもあった私は代替医療の勉強を始めました。
娘の親として、どんな手を使っても治してあげたい一心でした。
それはもう必死で、通常の医療でダメというものも、必ず治る方法があると考え、精神世界や心理学等、目に見えない世界にも手を出しました。
私は、何でもすぐに動きます。小林正観さんの本を1冊読み、すぐに会いに行きました。四国88か所巡りをするツアーがあったので、申し込んで一緒に88か所を巡りました。
同時に、斎藤ひとりさんの教えもすばらしいと感銘を受けました。こちらは、彼の会社の代理店にまでなりました。
その他エネルギー療法のような、若干怪しいかもしれないものも、いろいろ試してみました。
そんなことを続けている娘が中学のとき、私自身もがんになりました。手術後に抗がん剤治療を勧められましたが、なんとか自分で治したいと思いました。
こうやって、医療が手に届かない何十もの治療法について、学んでいくことになります。
4.娘が完治! 健康の仕事へ
娘は、何度も入院し、治療を続けながらも大学生になりました。
選んだのは県外の薬学部です。
帰省しているとき、「これは、本物だ!」と思う方法を試しました。
すると、娘は全く動けなくなってしまったのです。トイレも這っていかなければいけない状況です。
私はなんていうことをしてしまったのだろうと、泣きました。単身赴任中の夫が帰ってきていて、一晩中娘の身体をさすってくれました。
一晩経つと、娘はけろっと普通に戻っていました。そして、それを機に、ステロイドの量が減り、10年間苦しんだ病からついに脱することができたのです。
私は、癒しのエネルギーにはすごいものがあると思いました。私自身のがんも、若かったこともあり95%再発すると言われていたのです。しかし、全く再発していません。
娘や自分の病気はたまたま運がよかったのかもしれませんが、治るまでやる!と自分で決めてたのは大きいと思っています。しつこい性格です(笑)
自分で決める!やり尽くす!気がすむまでやる!
だから、そうしたワークを仕事にしました。
仕事をしていると、さまざまな不思議なことをする人と出会いました。
とても興味深かったのですが、不思議な力には深い悩みを持つ人も集まってきます。目に見えない力は、本当にあるのかどうかわかりませんが、依存させる力もあります。
娘が治ったときは有頂天で奇跡をよろこんだのですが、自分がどこまで力があるのかわかりません。
また、下手に依存させるとかえってよくないのではと考えるようになり、ヒーリングなどの目に見えない世界の仕事よりも実際に目に見えてスキンシップする方が実感できるし信じられると思い始め、やめることにしました。
その代わり、足つぼやアロマといった体に触れる方法を学ぶようになりました。
父が余命宣告されたとき、アロママッサージをしました。目を細めて気持ち良さそうにてくれたのです。これは、初めて父の体を触った経験だったと思いますが、大きかったですね。
5.笑いヨガとの出会い
お友だちが笑いヨガティーチャーで、笑いヨガリーダー養成講座を開催することになりました。その資料を観たら、講師が「高田佳子」です。
この名前・・・と記憶をたどれば、娘が病気のときに見て気になっていた「ケアリングクラウン」で知った名前でした。
病気の子どもたちに笑いを届けるという活動をやっていた人です。
高田佳子が徳島にやってくるということで、笑いヨガには興味はなかったのですが、2日間の笑いヨガリーダー養成講座を受講することにしました。
笑いヨガティーチャー養成講座にも参加しました。
富士山のふもとでの合宿、それも約1週間ずっと続くということで、行ってみたいと思いました。
かくし芸大会があると聞き、コスプレ衣装を持っていきました。
積極的に笑いヨガをやっていたわけではありませんが、仲間と一緒に老人ホームに慰問に行ったりするときに、きれいな色の笑いヨガTシャツや、コスプレはとても喜んでもらえるのです。だから、笑いヨガTシャツやコスプレ衣装はバッチリでした。
ティーチャー養成講座受講後からは、毎週の笑いヨガは欠かしていません。
社会福祉協議会、婦人会、JA等の団体に笑いヨガ講師として呼ばれたり、老人ホームに定期訪問するようになりました。スキルアップの必要性を痛感し、東京まで講師塾にでかけました。また、コロナ禍が始まるまでは、高田佳子を徳島に呼び、機会をつくっては仲間と一緒に勉強してきました。
6.還暦記念にオペラ舞台へ〜ハマりまくり!
今はオペラが最高に楽しいです。
笑いヨガで、講演したりリードするのに、声をうまく出すことは大切だと考え、笑いヨガのためにボイストレーニングを始めました。
トレーニングの中で、少しですが歌うのです。
そうすると、歌ってみたいなぁと思うようになりました。
カラオケではなくオペラです。
「オペラは劇であり、お芝居」と聞いたからです。
昨年還暦になりました。それを記念し、思い切って徳島で開催されるオペラ公演に参加することにしました。
笑いヨガのお仕事はコロナでなくなり、ちょうど時間もあったのです。
すると、一番楽しいのはオペラ!になってしまいました。
今年はこのオペラをクラウドファンディングでサポートしてもらい、2年目も実現します。私も今年も出演することが楽しみです。
7.メッセージ
笑いヨガは、人を変える力があると思います。
多くの日本人は、自己表現したいけど、おとなになると、躊躇してしまいます。
笑いヨガは、子供みたいになれるのです。
無邪気に自由になってもいいじゃないですか。
たとえば、教職員の研修で笑いヨガをやると、最初は真面目に話を聞いていた人たちが、笑いヨガがはじまると、校長先生でさえ、いたずらっ子になったりはしゃぎます。
私はそういう無邪気さが大好きです。だから、人間の持っている子どものような部分を引き出せる笑いヨガ講師でありたいと思います。
自分の奥底に沈めているものを、出しあってみんなが笑って暮らせるといいなあと思っています。
※ステロイド投与やがんの放射線治療の方針についてはあくまでご自身の薬剤師としての知識とともに医師と相談の上行ったことです。
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