母が残してくれた財産
2023年3月26日のオンラインサロン笑い道のルナ会の話題提供者は、兵庫県小野市在住の小林廣美さん。
2022年3月で姫路大学大学院看護学研究科の教授を退職。2023年は特別招聘教授として修士課程の学生を担当し、学生と共に卒業したのでした。
それに間に合うよう『笑いの効用と笑いヨガ』(学術研究出版)を出版しました。前半はこの本が生まれた経過、後半は彼女が歩んできた道の原点である「母が残してくれた財産」というたいへん心にしみるお話でした。
*2.母が残してくれた財産は、小林さんご本人の執筆です。
目次
1.笑いヨガとの出会い
1-1.笑いヨガの仲間はエネルギーの源
兵庫県の真ん中、小野市在住です。人口48,000人の町ですが、旅行で外に出たときは、小野といってもわかってもらえません。
いつも「神戸」か「姫路」から来たと言っています。
全長4㎞続く圧巻の桜並木の「おの桜づつみ回廊の桜」や温泉もあり、なかなか良い町です。
看護師、看護教員、看護研究者等の職業を通じ、いろいろな地域とご縁がありましたが、大学教員としての仕事を終えた今、小野で地域に根差した活動が増えていくのかなあと考えています。
笑いヨガは、大学を中心に、大学の公開講座や健康教室といった場で笑いヨガをやってきました。
笑いヨガとの出会いは2013年の札幌での日本笑い学会の研究発表大会です。
その大会で、私は『あなたと共に歩むリウマチ看護-痛みの緩和と笑いの効用』(中央法規出版)という自分の書籍を販売していました。高田さんは『認知症と笑い』というタイトルで研究発表をされた後、ニコニコしながら私の隣のブースにやってきて、「いやー、よう売れてるなぁ」と関西弁で言われるのです。私の本は専門的なもので、そんなに売れません。
しかし、高田さんの本やDVDは、良く売れていて、たくさん人がお手伝いをしているのです。
この人いったい何者!?と思ったのが、笑いヨガへの興味の始まりでした。
肝心の笑いヨガは、おもしろくもないのに楽しそうに手拍子して笑っていて、異質だと感じました。
しかし、会場の皆さんは何だか盛り上がっているようで、何より本人がとても楽しそうなのが気になりました。
すぐに近所でやっていた笑いヨガリーダー養成講座に参加して、笑いヨガリーダーになりました。しかし、高田さんとのご縁ができたのは、その5年も後のことでした。
2018年に高田佳子さんの笑いヨガティーチャー養成講座を受講しました。
その時、全国から笑いヨガティーチャーに集まっている参加者と知り合うことができました。講座の中で笑いヨガの活動をするためのFacebookの使い方も学ぶ時間があり、他の受講者の皆さんと繋がり続けることができました。
実は、この仲間との出会いと、彼らの活躍を知ることができることが、私の活動のよりどころであり、今もやる気のモトになっています。
2019年の全国笑いヨガ大会は、帯広でした。そこでは北見から笑いヨガティーチャー養成講座で知り合った市川恵子さんが大活躍していました。また、2023年10月に予定されている福島大会は、関口恭代さんが誘致して実現します。
福島県の大会ももちろん参加予定ですが、会津在住の綾田多美子さんはじめ、たくさんの仲間と久々にリアルで再会できるのが楽しみです。
2020年のコロナ禍で始まったオンラインサロン笑い道の他のメンバーとは、しょっちゅう話したりしているのです。オンラインでも、顔を見てお話できるので、いつも皆さんからエネルギーをいただけます。
1-2.『笑いの効用と笑いヨガ』を執筆したわけ
私はどんな時でも笑えば元気になれると思っていました。
病める時の笑いヨガは、健康な時とではやり方の違いはあるけれど、ずっと継続はできると思っていました。
最初は体操として笑う動作をしていたら、だんだんと体が慣れて無理なく笑えるようになります。だから、笑いの効果を得られ、元気になるのだと思っていました。
ところが、2022年夏、私はそうはいかない経験をしました。
どうしてもやれない。やりたくなかったのです。新型コロナウイルスの第6波で、感染してしまったのです。全身の倦怠感ですぐ罹患はわかり、受診したところ、やっぱり感染していました。後期高齢者なので、治療薬を処方していただき、自宅療養になりました。
発熱・咳・倦怠感・喉の痛みといった強い症状が出ました。発汗がひどく、熱はいったん下がりましたが、激しい咳で夜中に右目のこめかみ部分の血管がプチっと切れたように感じ、右側頭部の痛みがはじまりました。
右眼が充血し、腫れてきて見えなくなってしまいました。眼科受診もできず、自宅隔離の自室で寝たきりの生活を送っていました。
とても不安でした。PCR検査が陰性になったので、眼科を受診したい旨を保健所に相談しましたが、10日の隔離期間が終了しないとダメだと言われたのです。
だんだんと視力が落ちてきて、そのときの不安の中では、笑うことはできなかったのです。
やっと受診できたときの診断は「急性緑内障発作」ということで、あと2日遅れていたら、失明だったというのです。右眼のに続き、予防のために左目の白内障の手術を2週間後に受けました。
術後しばらくは、洗顔や洗髪もできず、庭の手入れや運転の許可もおりませんでした。それですっかり元気をなくしてしまいました。このままどうなるのか、体力はもとに戻るのだろうかと、不安な気持ちが続いていました。
11月になり、前から申し込んでいた「笑いCamp22」参加のため、山梨県富士吉田市に出かけたのです。
2泊3日の笑いCampは、普段FacebookやZoomでつながっていた人たちと、やっと一堂に会することができました。
皆さんマスクはしていたのですが、マスクの下の笑顔や喜びが伝わってきました。
豊富なプログラムで、瞬間瞬間とても楽しく、初めて会う人ともすぐに打ち解けます。
講師の若松進一さんの「コミュニティ」についてのお話は、これから先どう生きていくのかのアイデアをいくつもいただきました。
コロナからすっかり元気をなくし、意欲がなくなっていくことに不安を感じていたのに、たった2泊3日皆さんと笑いあうだけで、これまで取り組んできた笑いの研究や、笑いヨガの効果についての本をまとめようという気になりました。期限を退職迄と決め、卒業式の前には『笑いの効用と笑いヨガ』を完成し、出版することができたのです。
2.母が残してくれた財産
(小林廣美さん執筆)
2-1.早い別れと母の記憶
今回ルナ会で話題提供の機会をいただき、私自身の基盤を作ってくれた母の影響が大きかったこと、改めて確認できました。
母は49歳の冬(昭和33年)、それまで病気ひとつしなかったのに、私たち6人の兄弟姉妹を残して亡くなりました。私が6年生、弟が4年生、妹が2年生、兄と2人の姉は社会人でした。
その後は父と祖母に育てられました。
子どもとして、母として、女性として、人間として生きてきた中で、母の助けを欲しいと思ったことが幾度もあり、母の存在の重要性、偉大さをその都度痛感してきました。
私にとって、たった12年間の母との生活でしたが、現在の私自身の基盤を作ってくれ、多くの財産を私や兄弟姉妹に残してくれていると思います。
戦後の洗濯機も炊飯器も掃除機もない時代。
寺の住職として、また、農業、林業をする父の仕事は忙しく、しかし、現金収入が少なく生活はいつも苦しかったです。6人の子どもを育てるために、母は、父を助けながら、農業の仕事として田に畑に、山に、そして9人家族の洗濯、食事、掃除等に朝から晩まで毎日大忙し。さらに、夜なべに薄明かりの中、い草で畳表をおりわずかな現金収入を得ていました。また、うす暗い裸電球の下で縫物や編み物をしていました。いつ寝ているのだろうと不思議に思うくらい、働いて働いての毎日だったと思います。
おおらかでやさしかった母
生活に余裕がなくても、母はいつも穏やかでした。母に叱られたり、たたかれた記憶はありません。
子ども自身の成長を信じてじっと見守り続けてくれていたのでしょう。
私たち兄弟姉妹も母の苦労を知っているだけに、いい子でいたのかもしれません。
2-2.母が残してくれた財産―親子日記
母の記憶は少ないはずなのですが、私にとってはかけがえのない財産を二つ残してくれています。一つ目は、今も残る交換日記です。
実は、自宅が火事になり、何もかも焼けてしまいました。不思議なことに、この日記は焼け残り、今も大事に取っていて、この度見直しました。
私が日記をつけ、枕元に置いて寝ていると、朝それに母がきちんと日記に書いてくれていました。働いて働いて、とても忙しい生活でしたが、必ず書いてくれていました。
私は、朝目覚めるとすぐに母の日記を読み母の温もりを感じていました。いつの間に書いてくれたのだろうと思いながら、うれしい気持ちで先生に提出するのです。
先生は、それに赤インクでコメントを下さいました。きっと母も先生のコメントを楽しみにしていたのだと思います。私も、親子日記は楽しかったし、子どもながら母の愛情を感じるとともに、母の気持ちを理解することができました。
4年生のときの日記を紹介させてください。
妹は、小学2年生で母を亡くし、一番母を慕い続けて成長しました。そして今もなお母を慕い続け、寂しがっている妹に、母のつよい思いを伝えられる「納涼音楽会」の日の日記です。
————————————————
1956年(昭和31年)7月24日火曜日(晴れ)
今日は音楽会だ。
14番目の歌の時が来た。
3列に並んで舞台に上がった。
だれか5、6人の子が「キャー」と言って笑った。
私も笑いたくなって歯を出してしまった。
先生のピアノにあわせて歌を歌った。
玄関の方を見たら校長先生とどこかのおじさんが見ておられた。
お母さんはどこにいるのかわからなかった。
とうとう歌がすんだ。「ポン」というピアノにあわせて出ていった。
なんだかじょうずに歌えなかった。
指折り数えて待ちに待った今日は音楽会。
「お母ちゃん、早く来てよ」と保育所へ行っている小さな子どもが言い続ける。
「仕事を片付けておいて早くから見に行くで」。
今日はそのせいか、仕事が楽々と片付づく。
早めに仕事をおいて子どもだけ学校へ行かせた。
「お母ちゃんすぐに来てよ」「行ってまいります」と口々に 言って出ていく嬉しそうな3人の後ろ姿を見送った。
出たあと、「ジャー」とにわか雨が降ってきた。どうだろうと心配していたが、すぐにやんだ。しばらくすると有線放送で音楽会がある知らせ。すぐに身支度をして家を出た。
遅くなったと思いつつ一人小走りして学校へ行った。
ようやく始まって保育所の子どもの遊戯。
家では泣いたり笑ったりして遊ぶあの頑童(がんどう)が先生と同じように手足を動かし踊っている。
可愛らしいものである。親が教えたくてもあれだけのことは教えられないし、また、覚えない。
先生の尊さがしみじみと身にしみる。
あれだけ覚えさせる先生の努力、愛、本当に頭を下げずにはおられない。
私だったらすぐに「あほよ。馬鹿やなあ」とすぐに怒ってしまうのに。
あの先生の気持ちを思って今から導いてやりたい。
心を豊かに持って子どものためによい母親になりたいと心に願った。
先生のコメント(赤ペン)
1.私に対して
じょうずに歌ったよ。どきどきしたね。
雨が降らなくてよかったね。
2.母に対して
我を忘れて踊っているところに尊さがあるのですね。
小さな子供にも社会性ができているのでしょう。
————————————————
母は、私の日記の内容「うまく歌えなかった」という内容に対してではなくて、保育所から参加した妹の遊戯を見て感動した内容となっています。
妹の成長にきっと驚いたと思いますが、末っ子の妹は一番気がかりだったのだと思います。
2-3.母からの財産二つ目は、看護の道への導き
私を元気に生んでくれ、私を看護の道に導いてくれたことも、母からの財産です。
4年生の時だったと思います。あぜ道を歩きながら、「廣美は将来どんな仕事をしたいのか」と尋ねられました。
自分がなんと答えたのかは記憶にありません。
「できればこれからの時代は女性でも仕事を持ち、生きがいを持ってできる仕事を見つけることが大切だよ。」と言ってくれたことは、記憶にあるのです。
そして私は、看護師の道を選び、母の言ったように生きがいを持ってできる仕事として、看護、看護教育を一生涯の仕事として選びました。
誇りと信念を持ち、仕事を続けることができました。この仕事は母が私にくれた財産だと感謝しています。
この機会をいただき、日記を見返していたら、母がいかに子どもたちに愛情を注いでいたかというのをひしひしと感じることができました。「お母さんありがとう」という気持ちでこころの中がいっぱいになりました。
3.人生のテーマは笑える環境づくり
これまでの仕事や自分自身を振り返ると、たった12年間しか一緒にいられなかった母の影響が本当に大きく、私の原点になっているのだと思います。
看護専門職のキャリアにも、母や家族関係が活かされていることに気づきました。私のテーマは、笑える環境づくりです。
私は母に叱られた記憶がありません。自由にのびのび育ててもらったという記憶があります。そうやって育つと、怖い教師や上司に出会うと、思考が止まり、行動できなのです。
現場では、いつも相手を主役にして、相手が主体性を発揮できるよう、ペースを乱して自分の意思を出せない状況を作らないことを心がけてきました。
相手を信じてじっと待つことを、大事にしてきました。笑える環境があれば、安心で安全な居場所ができるのです。私ももちろんイライラすることはあります。それでも、心がけて忍耐強く、待つということを意識してきました。
私は、母の優しさに包まれ、愛されて育ったと思うのですが、それでも、「愛とは何か」と聞かれると、簡単に答えられるものではありません。
『笑いの効用と笑いヨガ』では、看護における笑いの定義を試みました。
重症心身障がい児を担当したときの体験にヒントを得て書きました。
彼女は、「愛って何?」「恋って何?」「生きるって何?」といろいろ質問してくるのです。その問いに答えるために、いろいろ調べてみるのですが、なかなか理解してもらえず、自分自身もしっくりくる返答はできませんでした。
三浦綾子氏の著作の中から、少しずつですが、言葉を見つけられるようになってきました。
「本当に好きだったら信じて待つ」という言葉がありました。本当に、その人が大事だと思ったら、じっと信じて待つことが、愛だと私は思いました。
そして、この考え方を大事にしたのです。ずっと後から、これは、母が実践していたことだったと気づきました。
信じる心、待つという行動も、母からもらったものです。
たった12年だけど、私は母から愛されて育ちました。人は、愛された分だけ人を愛することができます。たっぷりの愛をもらって育ったから、私も看護や教育の現場で、かかわる人を愛して信頼して待つことができたのだと思います。
私の兄弟姉妹はみんな仲が良いのです。全員タップリ愛されて育っているのだと思います。だから、コロナ禍の前は、正月とお盆は兄の家で集まり、いつも懐かしい話に花を咲かせ、皆でお墓参りをしてきました。みんな真正直な性格で、お互いを信じあえるのは、きっと母がそのように育ててきたのだろうと思います。
笑える環境づくりには、時には待つだけではなく、変化させることも必要です。
この写真は、看護部長をしていた時の写真です。ナースキャップは、3本の線が入っていて、かっこよかったのですが、私の時代に廃止にしたのです。
車椅子への移動時にキャップが患者さんに当たったり、術後にストレッチャーからベッドに移す時カーテンレールにキャップが当たったり、看護するときは邪魔になることがあったのです。
なんと、廃止に一番反対したのは医者でした。
誰が部長で師長か見分けがつかないと言われたのです。「それなりのふるまいをしますから」といって説得し、ナースキャップをやめました。
看護の現場では、このように小さな不合理を、少しずつ変えていきました。
60歳の誕生日の翌月、定年退職になるので、他のことをしようと考えていました。
その直前、看護実習生の受け入れの打ち合わせで大学の先生と話をしていたときのことです。
「笑いの研究をしたら、面白いでしょうね」という話題になり、研究をするなら紹介するよと言われ、すぐに指導教員を見つけてくれ、退職直後から、大学院に行くことになりました。
この不思議な出会いが、これまでの看護教育や研究の仕事につながり、そして笑いヨガにつながりました。
看護の道、看護教育の道、看護研究への道、笑いヨガへの道と、この間の長きにわたる道では、多くの人々に出会い、導かれ、支えて頂きました。
これからも、笑える環境づくりを目標に、いろいろな形で貢献していきたいと思います。
今は、感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。
コメントを残す