不を歩に ― ダウン症の娘の歩みは私の成長
2022年5月11日放映のテレビ東京の番組「家についていってイイですか?」が放映されました。
Zoom笑いクラブにやってきた番組スタッフを受け入れてくれたのは、東京都内に住む小池淑恵さん。
テレビ番組ではとても感動的なストーリーとして紹介されましたが、オンラインサロン笑い道のメンバーからもっと話を聞きたいとの声があがり、2022年6月のルナ会(月例会)でお話をお伺いしました。
1.アンテナを立てていたら、笑いヨガをキャッチした
私の娘は、ダウン症です。
1歳迄生きられないと言われていたのですが、社会人となり、元気に仕事をしています。
学校に行っているときは、毎日いろいろなことがあり、イキイキと生活していたのです。
社会人になり仕事にも慣れてくると、毎日の仕事の手順も決まっていて、安心な反面なんだか娘の表情が少し表情が乏しくなってきたような気がしました。
何か良い方法はないかと考え、カルチャー教室でボイスダンスというものを見つけました。
昭和歌謡に合わせて歌いながら踊るのです。沢田研二、西城秀樹、チェッカーズといった私にとって懐かしい音楽で、一緒に体を動かし、踊って二人で楽しんでいました。
この教室と娘の仕事のスケジュールが合わなくなりました。私一人で行くようになると、やたら疲れるのです。
やっているときは楽しいのですが、終わると体のあちこちが痛くなりました。
何か娘と一緒に運動できる良い方法はないかとアンテナを張り巡らせていました。ある日、ラジオから医師のおおたわ史絵さんのお話が聞こえてきたのです。
彼女の笑いヨガ愛の熱い話を聞いていて、これだ!と思いました。
ネットで検索し、水道橋の日本笑いヨガ協会の笑いクラブがヒットしました。
早速参加したのですが、呼吸が深くなり、声が出せて、みんなが笑顔なので自分も自然に笑顔になりました。
これに娘も巻き込もうと、夢が膨らみました。すぐに笑いヨガリーダーの資格も取りました。
笑いヨガのご縁で「家、ついていってイイですか?」で我が家の子育てを振り替えることになりましたが、29歳になるまでのことを思い出す良い経験になりました。
2.何物にも代えがたい小さな靴
テレビ番組で紹介された小さな靴は、子どもが初めて歩いた時に履いていた靴です。
「生まれて1歳までどんな気持ちでしたか」と聞かれて、
テレビでは「やっとここまで育ってくれて嬉しい」と答えるしかなかったのですが、
本当は語りつくせない思いがありました。テレビカメラを向けられて、手短に答えられるものではありません。
私たちは、不妊治療を6年ほどしていたのですが、自然妊娠で娘を授かりました。
19時間かかったお産は予定より1か月も早い日でした。小さく生まれ、ミルクが上手に飲めないということで、保育器に入れられ鼻から栄養を入れられ、大丈夫と言われるばかりで何の説明もなく、抱かせてもらえなかったのです。
数日後に大きな病院に転院させられました。
母乳をしぼって届けるのですが、それも出なくなり、どんどん不安になりました。
里帰り出産だったので、埼玉(当時)に帰りたいと言ってやっと紹介状を書いてもらいました。退院前1週間、ミルクを飲ませる練習をした際に初めて赤ちゃんを抱くことができました。
退院時に、初めて障がいのことを言われ、感染に弱く、長くは生きられないといわれたのです。
医師の心が折れる言葉の数々に、もう頭が真っ白でした。そのときのことは、何も記憶にないのです。
さらに、義母からも女の子だったことで、次は男を生んでと言われたり、障がいのある子である事がわかったことで、私の親のことも責められたりしたのです。
そのときは、祖母がものすごい剣幕で「みんなで育てていかなければいけない」と言ってたしなめてくれました。
封建的な地域柄もあり、この子を産んだことは、みんなからこんな風に言われながら生きていかなければならないのかと、一言では言えない思いがあったのですが、ほとんど目が見えなくなっていた祖母は、ひ孫を抱いて「なんてやわらかいんだ。大事に育てようね」と言ってくれたのです。
家族のいろいろな事情はあったとしても、1歳まで生きる生きないより、天に任せて大切に育てようと思いました。
初めてあるいたときの靴は、洗うこともせずそのまま大切に取っています。
3.関わり方で成長も無限大!
紹介状を書いてもらって行った地元の大学病院の話から、感染症を恐れ、風邪すら引かすこともできないと信じ、病院にいるか自宅にいるかの生活が6か月続きました。
当時はまだインターネットで情報を検索する環境ではなく、病院のドクターからはほとんど情報はありませんでした。
新聞や地元の情報誌、口コミ等で必死で情報を探し回ったのです。やっと見つけた早期療育について、病院に相談しました。
医師からは「ダウン症は脳はスカスカだから、やっても無駄だ」と言われたのです。
そういうものかもしれないのですが、療育は大事だと聞いた情報を頼りに、今度は保健所に泣きつき、小児医療センターの1歳までの早期療育コースで親子で遊ぶという体験までたどりつきました。
親の会にも入りました。
通園施設でたくさん情報を得ることができ、学びました。
病院は、脳のプロであっても障がい児のプロではありませんでした。
専門が違うだけだったので、今は許していますが、当時はずいぶん憤慨もしました。
「必要ない」と言われるとは、本当にびっくりでした。
だけど、すくすく育ち、歩けるようになった子どもへの愛おしさはどんどん募ります。守れるのは私たちしかいないと自覚し、夢中でした。
夫はもちろんとても協力的です。すごくかわいがり、29歳になった今もかわいくて仕方ないようです。
療育園の先生や親の会の先輩のかたがたからアドバイスを受けながら、親子共々学びの多い毎日でした。
一人っ子ということもあるのでしょうが、娘は人見知りが激しい子でした。
療育園で集団生活を経験しましが、みんな個性があります。おとなしい子、奇声を上げる子、走りまわる子、噛みつく子といろいろです。
人を怖がるようになったので、職員さんたちに協力してもらい対策を練り、娘が快適でいられるよう工夫を重ねました。
それも限界がきて、幼稚園に入れる年齢になったとき、環境を整えるために見つけた幼稚園は都内だったので、引っ越しました。
その幼稚園は、マイペースで過ごすことができ、とても良かったのですが、通園は月~金だけです。
土日は地元の公園で遊びます。
すると同じ年頃の男の子たちから「この子変」「変な顔」と言われるのです。
幼稚園は家から地下鉄で3駅でしたが、やっぱり地元で顔を覚えてもらって子育てすることが大事なことがわかりました。小学校は、事前に相談し、地元の小学校に行きました。
幼稚園の頃に公園で出会い「この子変」と言っていた子たちは同級生でしたが、2年生になる頃には「かわいい」と言ってくれるようになり、大事に接してくれました。私は心でガッツポーズで、地元の小学校に入学できてよかったと心の底から感謝していました。
小さないじめのようなことはあったのですが、多くの子どもや学校、私も知らない地域の人々に見守られ、一人で通学もできました。
低学年は問題なかったのです。普通課しかない小学校だったので、だんだんと学力の面でついていけなくなりました。
最初は自分で勉強を教えていたのですが、私がイライラします。
そこで、福祉の勉強をしている人に家庭教師を頼みました。そうすると、やっぱり違うのです。
自転車も、水泳もプロの先生に教えてもらい、上手にできるようになりました。スキーなどは、私よりうまい位になりました。
専門家の力を借りることで、どんどん伸びるということがわかりました。
4.推しメンは、女性をきれいにするのか!?
このようにして、人に頼ることがどれだけ大切なのかを私自身が学びながら、順調に進んでいました。
しかし、3人の暮らしは、夫の母親の突然同居でガラリと変わりました。
最初はよかったのです。ほどなく認知症が進み、妄想やら徘徊に悩まされ、家族も振り回されるようになりました。
それが10年続きました。
今でこそ認知症の「物取られ妄想」も知られるようになりましたが、小学生の娘から「お母さんは泥棒なの?」と言われたときは、本当にショックでした。
ここでも、私は専門家に頼りました。
私の負担が大きくなり過ぎないようなケアプランを作っていただくことができ、ストレス解消をしていました。
当時韓流ドラマが大流行でしたが、大ブレイクした「冬のソナタ」より前から私はペ・ヨンジュンの大ファンでした。
その楽しみのために、使う時間を確保できるようにしたのです。
介護という現実はありますが、ウキウキする時間に充実感を感じていました。
ペ・ヨンジュンと会えた日が、一番女性としてきれいだったのではないかと思うほどです。
会える日は朝からワクワクで、もちろんドレスアップして出かけました。
夫にも「今日きれいだな」と言われました。こうして私は心のバランスをとっていたと思います。
ペ・ヨンジュンには、さすがに娘はついてきませんでした。
でも、娘と私は好みが似ています。
娘はジャニーズの大ファンです。
相葉君推しなので、嵐のファンクラブに2人で入り、一緒にコンサートに行ったり、グッズを集めたりしています。
推しメンがいてウキウキする時間は、日常から離れる楽しみがあり、10年の介護が終わった後も、ずっと続いています。
5.「不」は実は「富」だった
「家、ついていってイイですか?」でインタビューを受け、いろいろなことに気づきました。
義母のことは、親ですから悪く言ったらイケナイと、封印していました。
だけど、今思い返せば、彼女と同居して介護という予定が立てられず予測できないことが頻繁に起きる状況になったからこそ、コンサートという前もって予定がわかる時間を確保し、その日に合わせてショートステイに行っていただき、自分の好きなことができたのです。
受け入れたからこそ、宝物のような体験がたくさんできたことがわかりました。
娘と同じ趣味で楽しむということができました。
実は毎朝お仏壇に手を合わせて、ケンカ笑いをしているのです。
いろいろなことを「ハハハハ」といったあと、手を合わせています。
私を成長させてくれ、強い親に育ててもらったのです。
何より、一時的にしろ、私を美人にしてくれました。
娘のダウン症も「大変でしょう」と言われることがあります。
小さい頃は無我夢中でしたが、成長がゆっくりな分、手をかけ声をかけ、気持ちを込めてこられたのだと思います。
いつまでも子育てを楽しませてもらっています。
娘のおかげでいろいろなものに出会わせてもらっています。
笑いヨガも、娘と一緒にできる運動を探そうとアンテナを立てた結果出会えました。
オンラインサロン笑い道では、笑いヨガをするだけではなく、体をいたわる方法や、思いもかけないことを学べたりします。
そして、今回の話を聞いていただけたこと、嬉しく思っています。
ダウン症の親の会等で話したことはありますが、それ以外の場所でこういった話をするのは初めてですし、障がい児の人たちに知っていただきたいとも思います。
ありがとうございました。
素晴らしい生き方だと感心させられます。大変な状況も、専門家の力を借りたり、楽しく暮らせる方法を見つけたり、より良い方法を見つけたり、マイナスをプラスに変える力がすごいです。でも、そこの中で、語れぬ悩み、葛藤、努力はいかばかりであったろうかと想像出来ます。
以前、働いていた小学校の親学級で、3人のダウン症のお子さんと1ヶ月、一緒に授業をしました。その後、音楽と給食は一緒でした。
その時思った時は、保護者の考え方、育て方で、こうも違うものかと。3人の中の1人は、クラスのみんなからも愛され、良く声をかけられていました。自分で出来ることは、どんなに時間をかけても、ゆっくりでもさせる。初めてから出来ないと決めつけない。誰からも愛される子に育てよう!あの時のあのお母さんの姿と小池さんがだぶってみえました。
素敵なお話に感動しました。