(笑い人)笑顔から生まれた3つの習慣

2021年11月14日に開催した、オンラインサロン笑い道のルナ会(月例会)での市川恵子さんのお話の要約です。

自分の幸せはどこにあるのかと、探す旅がずいぶん長く続いたと思います。子どもの頃から、「働くこと」と「笑顔」は当たり前でした。母からは、「学び」のチャンスを逃さない大切さを教えてもらいました。

長い人生、いろいろなことがありましたが、ふと気づくと、今の普通のおばさんが、毎日笑って暮らしていることの、なんと幸せなことか!

今だけではなく、私はずっと幸せだったのだと気づきました。

 

1.笑顔の習慣の誕生

私は現在北海道北見市で、年したのイケメン夫と2人暮らし。息子たちはとっくに家を出ています。

笑いヨガや、地域のいろいろなことで走り回り充実した毎日です。恩返しの時間が持てていることに幸せを感じます。
何より、大切な母が、幸せな時間を過ごしていることで、私も幸せです。

いつもニコニコしていて元気だねと言われます。
今、私がニコニコしていられるのは、もちろん、今がとても充実していて、楽しいからです。

しかし、私がいつも笑顔なのは、実は少しだけ悲しい歴史も関係しているのです。

 

母は、山形から北見市に移住した屯田開拓一家の出身。父からどこに行っても困らないよう、しっかり仕事を仕込まれたようです。とても働き者で、どんな仕事も早くて丁寧。きちんとした人です。

幼少期/父と母と一緒に

2002年に他界した父は、同じ屯田兵開拓農家の出身ですが、事情は違いました。

富山出身で比較的裕福だったようですが、戦時中は憲兵だったため、終戦後4年間シベリアへの抑留を経験し、戦後の小作人制度廃止で、わずかな耕作地と林を与えられ、冬には布団の襟が凍り付いてしまう土壁の家が、お見合いで結婚した母との生活の始まりでした。

とても厳しい人で、重労働の農業を一緒にする母をねぎらうでもなく、食事の支度を始め家事は全て母任せ。
自分より早く起き、自分が帰ってどんなに遅くなっても自分が帰るまで寝ることは許さず、常に父の前では正座でいることを強いられました。

重労働の中、急な雨が降ってきて、妊娠中の母を走らなかったと言って平手うちをしたりする父です。
そんな過酷な生活だったので、私より前に2回この世に生まれることが無かった兄弟がいたと聞いています。

しかし、母も負けている人ではありませんでした。あるときから奮起しました。

家の田畑を大きく増やし、家を建てる決心をしたのです。それからは、できる限り生活を切り詰め、牛を飼ったり、鶏を飼ったりして、副収入も得るようになり、父以上に忙しく働きました。

反対する父にかまわず、どんどんと家を建てる木を裏山から切り倒しました。
土壁の家を壊し、本当に立派な家を建ててしまいました。

両親のけんかはすさまじいものでした。
あるとき、ぼっとんトイレの汲み取り用の大きな長い柄杓に糞尿を入れて、父が母を追いかけました。

そんな笑い話のような光景が、今も私の記憶に鮮明に残っています。

両親がけんかしたときの険悪な雰囲気を、なんとかしたいと思っていたのでしょう。

私は子どもながらに自分が笑顔で明るく振舞うと、雰囲気が和らぐことを知っていたのか、いつもニコニコしていたのです。

近所で相撲に負けなかった小学生時代

自分の意志より「家族のため」が最優先に育てられた私は、幼いころから驚くほど気遣いをする子どもだったようです。
それを、後に親戚から何度も聞かされました。

社会人として働くようになり、いつもニコニコしていることが、必ずしも良いことではないことを知ります。
余裕があるように見られて仕事量が増えたり、不快に思う人もいたのです。

それでも私の笑顔の習性は、なかなか改められるものではありませんでした。

父の名誉のために言いますと、晩年は仏様のように穏やかな人になりました。

母にもお前でよかったと感謝していたとのこと。
父にされたことは一生忘れないと言っていた母も、その言葉ですべて許せたのです。

晩年はとても仲の良い夫婦で、母は今も毎日仏壇に向かってお経をあげ、自分で育てた花を飾り、大好物だったものをお供えしています。
そんな母を見て、とても幸せ気持ちになります。

月日は人を良い方向に変えるものですね。

 

2.学びの習慣

 

農家の子どもであった私たち姉弟は、家の手伝いを本当によくしました。小学校2年生から薪ストーブでご飯を炊くのも私の担当でした。
水汲みや風呂焚きはもちろん子どもたちの仕事で、「おしん」の生活そのままでした。

もちろん、自然環境豊かな土地ですから、山や川でおおいに遊びました。しかし農繁期は、学校から帰ってすぐに農作業を手伝い、夜遅くまで両親と一緒に働いていました。

家庭の事情なので、何も考えることなく、あたりまえに体を動かしていたのです。

そんな私の初めての選択は、高校進学でした。分家の女子はまだ高校進学をしないことも普通の時代でした。

父は中学卒業後、農家の仕事の手伝うのはあたりまえと考えていました。
母は、近所の自転車で行ける高校になら、行かせてもいいと言ってくれました。
授業が終わってからでも家を手伝えるからと父を説得しました。

それで高校に進学しましたが、家を最優先するのは当たり前の我が家とは、同級生の家庭事情は全く違っていたのです。
家を最優先する自分がおかしいような気になったり、家に帰ると父親の姿を見てイライラしたり、家に帰ると吃音が出始めました。

ブラスバンド部に入り、部活もしました。しかし、家では両親が苦労しているのに、自分だけ楽しんでいていいのかという気持ちになり、もやもやが続く高校時代でした。

母は、経済的余裕はなかったのですが、栄養は大切と考え、どんなに忙しくても自家用の野菜はたくさん作っていました。
何かのときには、どんなに忙しくても手作りの洋服を用意してくれました。

高校3年になる年、母からいきなりしみじみと、切り出してきたのは、進学のことでした。

今、このまま進学を決めるなら、行かせるというのです。
この頃まで生活は大変だったのですが、後でと言われても応援していく自信はないが、今なら、なんとしてでも頑張ると言うのです。

私は奨学金をもらえ、授業料免除にしてもらえ、あとは生活費(寮費)だけの送金ですむ北海道立保育専門学院に進学しました。

母は成人式には着物も着せてくれました

そこで得た保育士資格が、私のその後の人生を決めることになります。

何かの犠牲があったとしても、学びの時間がいかに貴重なものであるかは、この頃刷り込まれたようです。
だから、仕事に必要なスキルや知識も自分のお金と時間で学んできましたし、人の学びも応援してきました。

今でも学ぶことが好きですし、自分の人生のために学ぶことがいかに大切かということを、職場の後輩たちにも伝えてきました。

笑いヨガを学び続けたいと思っていて東京近郊に出かけていましたが、コロナ禍になった今もZoomで学ぶことができ、さらに全国の笑いヨガの仲間とこんなに頻繁に緊密につながることができていることは、本当にありがたいです。

レクリエーション、シェアリングネイチャーと、体操やリズム遊びと北見にいながらさまざまなことが学べることに、感謝です。

 

3.働く環境

小さい頃から家のために「必要」で働くのはあたりまえでした。
だから、働くことは苦になりません。

しかし、卒業して就職したら「自分」というものがないので、とても苦労しました。

保育士として児童館に就職し、仕込まれました。

子どもたちと過ごすことは大好きで、一生懸命働きました。するとやりすぎを注意されますす。

「そこまでする必要はない」と言われたこともあります。

意味がわかりません。

それでも地域の子どもたちのために、やった方がいいと思うことをやり続けてきて、やっと自分の考えで働くことができるようになりました。
が、やはり働き過ぎる!と注意されることが多かったのです。

とうとう現場のチーフの仕事から、児童館主任という役のもとに、点々と各館の産休代替などの仕事ばかりの時期もありました。

悩みに悩んだ頃、まちづくりや人のための活動している方々との出会いがありました。
そこで、自分がやっていることに少しだけ自信が持てました。
直接その方々が何かをしてくれるわけではないのですが、人との出会いこそが、自分を支えてくれるのだという実感も持てました。

そうこうしているうちに、今度は大好きな現場の仕事から離れることになり、児童館事業係長、そして青少年課長として事務所での仕事となりました。

しかし、すばらしい人たちとの出会いがあった後ですから、ここでしかできない子どもたちの育成や環境づくりがあるぞ!と思い直し、そこでもがんばりました。

現場の経験が長かったので、事務は勉強しながらの事も多く失敗もありましたが、利用者側に立って、理解しあい、納得しあい仕事を進めるよう心がけました。

もちろん、子育て、親戚の行事、介護、地域のこと等、めいっぱいがんぱりました。

 

ついたあだ名がブルドーザーです。

職場では、市町村合併で1市3町の合併がありました。
仕事量が半端なかったのですが、3町の人たちが納得できるよう、できる限りのことはしました。

夫の父の最後の1年を看ることができなかったのだけが、心残りでした。
しかし、1月1日が命日となり、今も親戚一同忘れることなく集まり、供養できているので許してもらえていると思います。

北見市では子ども支援課長も経験させていただきました。

法律の変わり目で、市町村の業務がまだ整理されていない中、子ども支援課長として、次世代支援行動計画の策定・評価・検証、児童扶養手当、障がい児対象特別扶養手当、虐待や発達相談窓口、婦人相談、子ども発達支援センター等すべてを担当していました。

私の移動後、すぐ3人の課長と職員が増員された仕事です。

中でも発達支援センターの建て替えは、関係者の理解や議会や補助金等、本当にたいへんでした。
現場をベースに仕事をしてきたことが功を奏し、なんとか関係者の協力を得ながら進めてきました。

しかし、完成を待たずにまた異動になりました。
合併後の留辺蘂自治区保育課主幹となり、ここでも保育士や自治区の方々と協力し保育士園長の確立や子育て相談センターの増築設置ができました。

市役所最後の1年はまた青少年課長に戻してもらって平成25年(2013年)の退職まで勤めました。

そのおかげで青少年課児童館係として再任用となり、主に職員研修や苦情、市内各児童館と関係機関との連携による発達相談担当等を任せられました。経験を生かせる恩返しの生き方を大切にしようと思いました。

退職金から100万円を出し、後輩たちや高校生リーダーの派遣研修にも使ってもらいました。

それから、笑いヨガやシェアリングネイチャーを学びましたが、すべてが今まで頂いたご恩返しをできるものです。
だから、楽しく学ぶことができます。

みんなで一緒に感動共有できるよう、学び続け、働き続け、そしていつも笑っていたいと思います。

 

今は、北見レクリエーション協会の理事長・事務局長として各種イベント・依頼講座の進行事務や指導、また楽笑元気広場代表として地域高齢者を対象に定例の笑いクラブや健康レクリエーションクラブの運営指導、そして児童館時代お世話になった青少年健全育成推進会の役員、児童館チャイルドアドバイザー登録でネイチャーゲームや室内スポーツ、百人一首の指導、保護司や地域のハーブ園の手入れなど、さまざまなボランティア活動で大忙しの毎日!
ですが、とても元気で幸せです。

子どもの頃、両親のけんかの仲裁で身につけた笑顔ですが、今は人と自分の元気のため、役立っています。

 

「笑顔の習慣」「学びの習慣」「働く習慣」の3つは、その3つとも、私の意志ではなく、たまたま環境によって育まれたものです。

長い間、ずっと自分の幸せを探してきました。

しかし、気づいてみると、最初からずっと私は私だし、そのままで幸せだったのです。

これからも、笑顔で学び、働き、元気でご恩返しをしていきたいと思います。

 

2 件のコメント

  • 市川さんの元気いっぱいのリードに私もいつも元気を頂いてます!ありがとうございます!引き続きのご活躍をお祈りしてます!

  • 飛田睦美 へ返信する コメントをキャンセル

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